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世界観の話② 「時間」を与えるアイテム

前の記事では「世界観を構築する点」の存在について書いたが、今回はその具体例について最近少し気になることがあるので書き残しておこうと思う。

ここ数年、アニメ中で登場すると少しだけ「んっ?」となるアイテムがある。
それは、携帯電話 だ。
そこには携帯電話が持ってしまった「時間」の概念が関わっている。

良い世界観を作っていくうえで重要なのは、前にもふれたとおり「存在しない概念」を作っていくことにある。例えば、ドラえもんでは、のび太君は放送が何年目になろうと小学5年生のままだ。ご存知の通り、これは別にドラえもんの道具で永遠の小学5年生になっているわけではないし、1年間の物語を何年にもわたって放送しているというわけでもない。つまり『ドラえもん』という世界では、のび太は「成長しない」のではなくて、「成長という概念がない」ということになる。
もし「のび太は永遠の小学5年生」などという設定があったとしたら、ドラえもんの世界観は全く別物になってしまう。

ドラえもんの例にもあるように、アニメの世界では「時間」に関する概念がないことが多い。それは、ドラえもんのように、作品の都合上「時間経過」が無いような場合もあるが、時間が存在しないことを利用して素晴らしい世界観を作っている例もある。例えば私の好きな『ソラノヲト』は「現実の時間軸とのつながり」という概念は存在させつつ、具体的な西暦などについては暗黙のままにし、その空白からくるゾワゾワ感が絶妙な世界観を作っている。

現代劇であっても具体的な西暦については触れられないことが多い。というか、わざわざ触れる必要がない。具体的に西暦20〇〇年と言い切ってしまうと、点の理論から「実際に起きたニュース」などの存在まで同時に認めることになってしまう。そこまではっきりと現実を意識させられると入り込みが難しくなったり、少しの差異がやたら気になったりと、何かと面倒なことになる。『シュタインズゲート』のようにそこのリアリティーを追及していくという手もあるが、特にそういうつもりではない場合、細かな時間は「あやふや」にしておいた方が無難である。

「あやふや」にしておきたい時間。携帯電話の存在がそれを邪魔しつつある。
ここ数年でスマートフォンが圧倒的に普及したことがその原因だ。スマートフォン普及以前は連絡方法に関して、「携帯電話=現代」という「あやふや」な関係性が成立していた。(ただ、もしかしたら世代によって感じ方は違うのかもしれない)しかし、ここ5年程度の間にスマートフォンは爆発的なスピードで普及し、従来の携帯電話は「ガラケー」と名前を変えた。これによって、スマートフォン普及後の現代劇では「スマートフォン=2008年~現在」、「ガラケー=少なくとも2008年以降ではない」というように、かなり細かい時間設定が点の理論より生まれてしまうのだ。問題なのは、今まで通りにガラケーを登場させるだけでも「2008年以降ではない」という意味が出てしまうということだ。これによって、前述したようにイヤな現実味が出がちになっているのである。また、ストーリー上、まったく登場させないのも難しい、というのも厄介なところだ。

スマートフォンの普及があまりにも急激だったがためにこのような事態に陥っている。現時点ではガラケーを登場させるアニメが多い(原作の連載時期の影響も大きいとは思う)が、今後スマートフォン歴が長くなればなるほど、ガラケーが持つ意味が大きくなっていくことだろう。どこかで切り替えていくことが必要になるが、なかなかそのタイミングは難しそうだ。

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世界観を構築する「点」について

いきなり余談になってしまうが、この記事では文末は「だ、である」体に統一してみようと思う。
今までは基本「です、ます」に統一していたわけだが、話が長くなって、内容も理屈っぽくなっていくほど、この「です、ます」が邪魔になっていることに気付き、もどかしい思いをしていたわけだ。
だた難しいのは、自分自身のことを話すような部分に関しては「です、ます」のほうが相変わらず丁度よく、実際、ここまでの文を書いている段階で、「です、ます」に戻したくてうずうずしている。
まぁ、このブログのメインは近況報告ではないので、そこは割り切って「だ、である」で頑張ってみようと思う。


ここからが本題。
「世界観」といえば、世界観がイイ、だとか、世界観を構築する、だとか、フィクション作品を語るうえでは何かと登場する言葉だ。私も、度々この言葉を使ってきたのだが、その意味がハッキリしないまま何となく響きの良さで使ってしまっている、いわゆる「困ったときの世界観」状態になってしまっているのではないか、と少々不安になってきたので、ここで私の中での「世界観」ついて整理してみようと思う。

「世界観」とは「物語中の概念を意図的に制限することで作られる仮想世界(に受ける印象)」だと思っている。要するに「そんな考え方自体、この世界には存在しませんよ。」という存在を作っていくことで生まれる物語全体の印象、ということだ。逆の考え方をすれば「ゼロから存在する概念だけを作っていく」という言い方もできるのだが、灰羽連盟やソラノヲトなどの世界観が素晴らしかったアニメを思い出してみると、なんとなく「制限」という言い方のほうがしっくりくる。

世界観について考えるとき、私は平面の図を思い浮かべている。アニメ内で起きた、事象A、事象B、事象Cがあった場合(事象といっても、街並みとか、しゃべり方とか、その幅は広い)、「点A,B,Cを頂点とする三角形の面積」にあたる部分がその時点での世界観である、というイメージを持っている。
「Aがあって、Bもあるということは、少なくともAとBの間のすべてが存在する可能性があると考える」ということだ。理屈っぽく言っているが、誰もが無意識にそう感じているはずである。

実際にはA,B,C,どころではなく、作品中には無数の点が存在する。しかし、たいていその点は、いくつかでグループを作って近いところにかたまっている。「ギャル語、金髪、学校をサボっている・・・」これらの点は非常に近いところにあることが分かるだろう。このような点だけがいくつ集まっても世界観が広がるということはない。そのかわりに、狭い範囲の世界感をより鮮明にするという役割を担っている。図で言えば三角形から、点が多くなって滑らかな円に近づいていくイメージだ。

世界観を構築していくうえでは、近い点をたくさん打ってその解像度を上げていくことも重要だが、時には全くかけ離れたところに点を打って、世界観を大きく広げるという作業も必要になる。そして、その作業こそが「世界観がイイ」につながるものでもあり、世界観を崩壊させてしまうようなリスクも併せ持っているのである。

私がこのように考えるようになったキッカケでもある例を挙げようと思う。急に気持ち悪い話になるので覚悟してほしい。
『けいおん』や『ゆるゆり』、『ひだまりスケッチ』など、女の子しか登場しない系アニメ、そこで比較的よく登場するセリフ、そのセリフが出た瞬間に世界観がひっくり返る思いがして、私は悶絶してしまうのである。

いつもの4人で行動している最中、とある一人が「ごめん、今日は先に帰るね。」と足早に去っていく。

その後、残されたうちの誰かがぼそっとつぶやく「もしかして、彼氏かな・・・」

この瞬間、世界観が倍に膨れ上がる。お分かりいただけただろうか。実際彼氏がいるかどうか、ということが問題なのではない。フィクションなのだから。重要なのは男性キャラがほぼ登場してこなかったアニメにおいて、「彼氏」という概念を生み出した、ということだ。



図にするとこんな感じになる。それまで「彼氏」という存在に一切触れず、それ以外の「学校」や「友情」などの点を打ち続けることで構築されてきた「彼氏という概念が存在しない世界」。そこに打ち込まれた「彼氏だったりして」という一つの点。これによって「彼氏という概念が存在する世界」が一瞬にして誕生する。
ストーリー上は「彼氏じゃなかった」ということになるのだが、一度誕生した世界は消えることがない。「今はいないけど、5年後はいるかもしれない」「10年後はお母さんかもしれない」と、その世界では存在しうる未来も含めて「可能性」が圧倒的に広がるわけだ。

この例について「彼氏だったりして」という点を打ったことが、是か非かという結論を出すのは難しいことだ。そして何より、こんなことの是非にこだわっているようでは現実に生きる人間として虚しい。
しかし、点の効果が絶大であるということは図を見るだけでも一目で分かる。物語を作るうえでは無視できない存在だ。そのあたりについて製作側がどの程度意識しているのか、気になるところだ。











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感動の種類

先日観終わった『新世界より』。最終回がこんなに面白いアニメは珍しい、みたいなことを書きましたが。珍しいのはその部分だけではなく「感動のさせ方」も昨今のテレビアニメの中では少数派であると感じました。

物語における感動の種類は大きく2つに分けることができます。
1つは「感情に直接うったえる感動」、もう1つは「論理的な感動」です。

「親友が悪の手先に、世界を救うためにはたとえ親友でも戦わなくてはならない」というストーリーの場合、人類のため親友にとどめを刺す場面が「感情にうったえる感動」。とどめを刺された親友が息を引き取る間際、最後の会話で伏線が回収され世界の秘密が明らかになり「そんなっ・・・」となる場面が「論理的な感動」ということになります。

要するに「感情にうったえる感動」は登場人物に感情移入することで、ダイレクトに悲しい気持ちになったり嬉しい気持ちになったりすることで、「論理的な感動」は伏線が一気に回収される瞬間の気持ちよさ、いわゆる「カタルシス」というやつです。だだしややこしいのは伏線を回収しただけで「なるほどね」で終わってしまわないためには「論理的感動」であっても感情のエッセンスは入れなくてはいけないということです。

言い方を変えると「感情にうったえる感動」は「涙が出る感動」、「論理的な感動」は「鳥肌が立つ感動」とも言えるかもしれません。こちらの方が分かりやすいです。

『新世界より』の最終回はまさに「論理的な感動」でした。これがなかなか珍しいことなのです。
テレビアニメはその特性上どうしても「論理的な感動」を苦手とします。というよりはごく自然な流れで「感情にうったえる感動」にかたよりがちと言ったほうがいいかもしれません。

「論理的な感動」を実現するためにはゴールから逆算したストーリー展開が必要になります。また、いざ感動させた後は伏線を使い切ってカスカス状態になることも覚悟しなくてはいけません。
アニメは原作が漫画であることがほとんどだと思います。漫画は場当たり的に連載が続き最後は軟着陸する場合や、そもそも原作の連載はまだ終わっていないのにアニメは最終回になるということもしょっちゅうだと思います。このような状況では「ゴールから逆算」することはなかなか難しく自動的に「論理的な感動」も少数派になってしまします。

『新世界より』は原作がミステリー小説ということで、ゴールから逆算がされているのも納得です。ほかにも『ソラノヲト』『モノノ怪』なども「論理的な感動」が体感できる作品だったと思います。
それに対して「感情にうったえる感動」の代表的なものは『けいおん』『CLANNAD』『あの花』などでしょうか。こちらの方がいつまでも心に刺さり続けるのが特徴です。

2種類の感動は決して相対するものではありませんが、やはり1つの作品ではどちらかに偏ってしまうものです。しかし私の知る限りではこの2つを見事に両立させた作品が1つだけあります。
『魔法少女まどかマギカ』です。
因果の渦に必死で抗おうとする少女の物語。まさに「論理的感動」と「感情にうったえる感動」の融合です。
『まどかマギカ』が次世代のアニメの新たな基準を作ったような、他のアニメとは何か次元が違うような、そんな感じがするのはこの為なのかもしれません。



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破壊者シド ガンダムAGE

ガンダムAGE45話「破壊者シド」

「EXA-DB」と呼ばれる過去の国家戦争のデータが詰め込まれた秘宝が自動的に生み出した兵器「シド」が登場しました。



なんとも異質な雰囲気。
AGEっぽくないところが非常に好きです。設定的にも「過去のデータが生み出したMS」なのだから、どのMSにも似ていないのは当然なのですが、同時にどこかで見たことある感があります。
過去作品で似ているものを探していると、ナイチンゲール、αアジール、ノイエジール、アプサラス等々、言われてみればジオン系巨大兵器の流れを感じさせる見た目です。ガンダムUCにドラゴンみたいな巨大MAが登場しましたが、それがこのシドと入れ替わっても大した違和感はないのではないでしょうか。

旧時代の集約ともいえるMS、そしてジオン的なデザイン。・・・これは少しわくわくします。隠し設定として宇宙世紀との繋がりがあったら嬉しいです。
とは言ってもこれ以上踏み込んだ説明がされることはないと思いますが。

「シド」。この名前を聞いたとき漠然と「神様の名前だっけ?」と思っていました。
調べてみると私が思い浮かべていたのは「シド」ではなく「シヴァ」、ヒンデュー教の破壊を司る神だそうです。
「シド」で検索しても出てくるのはヴィジュアルバンドの「シド」ばかり。一時期ラジオでよく流れていた「シドのウソ」という響きだけが頭に残っています。
それからアラビア語の(sayyid)「主人、あるじ、男性に対する敬称」という意味もあるようです。発音は(セイイド)が正しいようですが、AGEのシドは自らを生み出したEXA-DBを守っているMSなので「主人、あるじ」という意味が通る気もします。

しかし、ここではあえてさっきの「ジオンの名残説」を最優先に考えてみます。「Zion」という文字をこのように変形することはできないでしょうか。


そろそろ、くだらなくなってきました。

私はまだガンダムAGEをあきらめたくないのです。

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ガンダムAGE ガンダムレギルスの色について

以前、ガンダムAGEに登場するCファンネルにつて書いたところ想像以上に検索数が伸びましたので、調子に乗ってまたしてもAGEの揚げ足取りをしてみたいと思います。


ガンダムレギルスはヴェイガンの長、イゼルカント様が乗るMSで、キオとAGE-3がヴェイガンに捕えられたときにガンダムの技術を盗んで開発された「ヴェイガンのガンダム」です。

見た目の第一印象としては、「形がヴェイガン、色がガンダム」といったところでしょうか。
ジオン軍MSのガンプラを買ってきて、ガンダムカラーに塗ってしまうような遊び心を感じさせる見た目です。(悪い意味で)

さて、このガンダムレギルスが持っている矛盾感は単に見た目の珍奇さからきているだけのものではありません。
AGEスタッフはガンダムシリーズにおける「白いモビルスーツ」の意味を忘れてしまったのでしょうか?
白いモビルスーツ、厳密に言えば白+トリコロールのカラーリングのモビルスーツといえば、主人公がいる側の軍の技術力、強さの象徴として扱われてきたはずで、当然敵軍からすれば倒すべき敵の象徴なわけです。

ガンダムAGEでも例外ではありません。むしろ地球軍とヴェイガンの過度な憎しみ合いみたいなものが強調して描かれているのだから、例えガンダムの技術であったとしても絶対にガンダムカラーにはしないはずなのです。しかもそれにリーダーが乗っていたらヴェイガンの士気も下がる一方ではないのでしょうか?

そもそも技術を盗んだところで、色が似てしまうということがあるわけがありません。アニメをみている限りでは、ガンダムを捕えてからかなりの早仕事でガンダムレギルスが出来上がっていました。ということは、突貫工事でむしろ形の方がガンダムに近くなるのでは・・・。
同時期のヴェイガンの高性能機と思われるギラーガと比較してみます。


決定的に違う部分は顔、胸、武装、しっぽの有無、といったところでしょうか。基本形は同じでガンダムとしての記号だけを取り入れたという感じです。カラーリングも記号の一つですから、「どうしてもガンダムにしたかった」といった感じがひしひしと伝わってきます。ここまでわざとらしいと万が一、何か意味があるという可能性も捨てきることはできません。

ここまで言ってきたようなことを製作側も考えないわけはないと思います。つまりはカラーリング等もまだまだおつむが働かない子供たちのために、分かりやすさを重視したということなのでしょう。
とはいえ、往年のガンダムシリーズファンを無視するかのような設定はいただけませんし、パッと見で違和感があるのも確かです。

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