『リリカルなのは』シリーズは比較的最近になってから、評判がよかったので観はじめました。しかし、物語序盤は「本当におもしろいの?」と不安になる感じです。
1話冒頭、主人公高町なのはの語りから始まります。「・・・・これから始まるのはそんな出会いとふれあいのお話、魔法少女リリカルなのは 始まります。」
・・・なんてベタなオープニング、まるで劇中劇のようです。
更にこの後、魔法の力を授ける小動物と出会い魔法少女になり、魔法の結晶であるジュエルシードを手に入れるため魔獣と戦うことに。
ここまででは幼女向け駄作アニメのにおいがプンプンします。放送時間的に幼女向けなわけはありませんが、リアルタイムで放送を観ていた人はこのあたりで挫折する人も多そうです。
しかし、ライバルとなるフェイトの登場から駄作臭は一変します。明らかに悪者ではないフェイト、「お友達になれそうなのに・・・」と思いながらも戦わざるをえないなのは、戦闘が繰り返される度に二人の思いは複雑になっていきます。そして最後は二人の力で本当の敵に立ち向かうことに。感動します。
ストーリー的にはけっこうベタ、しかしそれ以上の感動があります。なぜでしょうか。
おそらくその秘密はキャラクターの年齢設定にあります。高町なのは小学三年生、フェイトも多分同じくらい、戦闘ものアニメとしては最年少に近い年齢です。この完全な子供設定が、戦闘ものアニメには付き物の主人公の「きれいごと発言」に説得力を持たせています。例えばなのはがよく言う「戦わないでお話ししよう、お話しないと分からないよ。」的な発言、ザラな主人公がこんなことを言っていたら腹が立ちます。しかし小学三年生なら話は別、「そうだよね、子供ならそう考えるよね。」と個人差はあると思いますが私は許せてしまいます。つまり「きれいごと」は「純粋」に変換されるのです。
更に相手に「お話しよう」が通用しないと分かったなのはは一変、「なら仕方ないね、ちょっと痛いかもしれないけど全力でいくよ。」急に容赦がなくなります。普通の小学三年生は絶対にこんなことは言いません。しかしかっこいい、さっきまでの純粋さからの急激なギャップに熱くなります。
子供的な部分と、子供とは思えないような部分を使い分けることで、「戦いたくないけど戦わなくてはいけない」という最も重要な部分を違和感なく、そして感動的に表現することができているのです。
序盤のダサさすら感じるベタな展開。そしてその後の感動。現在では定着した「魔法少女もの=オタク向けっぽいけど実は感動大作」というイメージを作り上げたのは、このアニメがきっかけなのではないでしょうか。
-劇場版について-
2時間以上という上映時間に本気度を感じます。ストーリーの本筋はテレビ版と同じで、よりフェイト側に主観が傾いた感じです。テレビ版では時々気になった古めかしくダサい演出がなくなり、戦闘シーンは劇場版クオリティに。元々しっかりしたストーリーがあるので一本の映画としての相性も良好です。
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