忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

魔法少女リリカルなのはA's




『リリカルなのは』シリーズの第二弾、このシリーズの中で最も好きな作品です。いや、全アニメの中でもかなりお勧めの部類に入ります。同じくらいお勧めできるほかの作品と比べてみると作画や演出面ではこの作品が劣る部分が多いかとおもいます。しかし、その分作品としての根幹の部分が優れているのではないでしょうか。
「なのはの前に現れる敵、本当は戦いたくないけど・・・」という基本的な物語の構造は前作と同じで、前作の良かった部分をより洗練したような印象。物語終盤の感動はより一層増しています。

前作はなかなかのスロースタートで、物語序盤は幼女向けアニメの雰囲気でした。しかし『A's』では一話目から高い熱量でスタートします。前作のフェイトにあたる戦わざるをえない敵「守護騎士」の一人であるヴィータが早速登場し、なのはに襲い掛かります。やはり前作ありきで無駄な導入部分を省けるのは2作目の強みです。

この「守護騎士」ヴィータですが、私はこの人の存在が『A's』を感動大作にした要因の一つだと思っています。余談ですが私の好きな女性アニメキャラクターランキング第一位はヴィータです。(ちなみに2位はBLACK LAGOONのバラライカ、3位はCLAYMOREの微笑のテレサです。)ヴィータ最大の魅力は「ギャップ」です。ギャップと言えば前作ではなのはが子供感と大人感のギャップを見せましたが、ヴィータはそれを上回っています。守護騎士は人間ではないので年齢設定は無いと思いますが、見た感じではなのは達よりも年下な雰囲気です。ゆえに普段は無邪気で少しわがままな子供、主である八神はやてには特になついていて、甘えるようなシーンも数々あります。しかしヴィータの本質は「守護騎士」、わけあって生命の危機にある主八神はやてを救うために戦います。敵を前にしたときのヴィータには、なのはのような容赦はなく乱暴な言葉を吐きながら敵を殲滅しにかかります。この乱暴な戦いが、無邪気であるがゆえに「八神はやてを守りたい」思いに歯止めがきかない様子、もう引くことができない守護騎士たちの現状を効果的に表現しています。さらにヴィータが使う武器の選択もすばらしいです。「グラーフアイゼン」ハンマー状の武器で、ヴィータの感情に連動するかのように大きさが変わります。粗暴さと無邪気さを合わせ持ったヴィータのキャラクター性、更には小さな体でハンマーを振り下ろす様はヴィータの必死さをより強調しています。「非情な運命に、涙を流しながらも全力で巨大なハンマーを振り下ろす」というシーンはヴィータのすべてを凝縮したような名シーンだと思います。

ストーリ面も前作を踏襲しつつ、「交錯する運命」みたいなものをより効果的に感じさせてくれます。特筆すべきは「善悪の完全な50:50」ということではないでしょうか。前作では最後の敵となるフェイトの母親が、娘を思う気持ちからとはいえ悪役の雰囲気を醸していました。しかし『A's』では悪役はおろか悪役風な人すら登場しません(一瞬登場する仮面の戦士は別として)。なのは達と何度も衝突する守護騎士達は自分たちを家族のように扱ってくれる主の命のために戦っています。普通この場合、「守護騎士たちには慕われている主も実は危険な思想を抱いていて・・・」というパターンが多いのですが、主八神はやては守護騎士たちが自分のために戦っていることすら知りません。どのキャラクターの側からでも違和感なく感情移入ができるこの構造が「誰も間違っていないのに戦いが繰り返される」というやるせない状況を観ている側にもひしひしと伝えてくるのです。

拍手[0回]

PR

魔法少女リリカルなのは





『リリカルなのは』シリーズは比較的最近になってから、評判がよかったので観はじめました。しかし、物語序盤は「本当におもしろいの?」と不安になる感じです。

1話冒頭、主人公高町なのはの語りから始まります。「・・・・これから始まるのはそんな出会いとふれあいのお話、魔法少女リリカルなのは 始まります。」
・・・なんてベタなオープニング、まるで劇中劇のようです。
更にこの後、魔法の力を授ける小動物と出会い魔法少女になり、魔法の結晶であるジュエルシードを手に入れるため魔獣と戦うことに。
ここまででは幼女向け駄作アニメのにおいがプンプンします。放送時間的に幼女向けなわけはありませんが、リアルタイムで放送を観ていた人はこのあたりで挫折する人も多そうです。

しかし、ライバルとなるフェイトの登場から駄作臭は一変します。明らかに悪者ではないフェイト、「お友達になれそうなのに・・・」と思いながらも戦わざるをえないなのは、戦闘が繰り返される度に二人の思いは複雑になっていきます。そして最後は二人の力で本当の敵に立ち向かうことに。感動します。

ストーリー的にはけっこうベタ、しかしそれ以上の感動があります。なぜでしょうか。
おそらくその秘密はキャラクターの年齢設定にあります。高町なのは小学三年生、フェイトも多分同じくらい、戦闘ものアニメとしては最年少に近い年齢です。この完全な子供設定が、戦闘ものアニメには付き物の主人公の「きれいごと発言」に説得力を持たせています。例えばなのはがよく言う「戦わないでお話ししよう、お話しないと分からないよ。」的な発言、ザラな主人公がこんなことを言っていたら腹が立ちます。しかし小学三年生なら話は別、「そうだよね、子供ならそう考えるよね。」と個人差はあると思いますが私は許せてしまいます。つまり「きれいごと」は「純粋」に変換されるのです。
更に相手に「お話しよう」が通用しないと分かったなのはは一変、「なら仕方ないね、ちょっと痛いかもしれないけど全力でいくよ。」急に容赦がなくなります。普通の小学三年生は絶対にこんなことは言いません。しかしかっこいい、さっきまでの純粋さからの急激なギャップに熱くなります。
子供的な部分と、子供とは思えないような部分を使い分けることで、「戦いたくないけど戦わなくてはいけない」という最も重要な部分を違和感なく、そして感動的に表現することができているのです。

序盤のダサさすら感じるベタな展開。そしてその後の感動。現在では定着した「魔法少女もの=オタク向けっぽいけど実は感動大作」というイメージを作り上げたのは、このアニメがきっかけなのではないでしょうか。


-劇場版について-
2時間以上という上映時間に本気度を感じます。ストーリーの本筋はテレビ版と同じで、よりフェイト側に主観が傾いた感じです。テレビ版では時々気になった古めかしくダサい演出がなくなり、戦闘シーンは劇場版クオリティに。元々しっかりしたストーリーがあるので一本の映画としての相性も良好です。

拍手[0回]

これはゾンビですか? オブ・ザ・デッド




「あれっ、こんなに面白かったっけ?」となんだかうれしい気分になりました。
前作で嫌だった部分がほぼなくなっています。その反面、やや強引な作りでしたが全然気になりません。前作では「中途半端なストーリー重視」がマイナス点でしたが、今回は「成るものは成る!」的なザックリとしたストーリー展開。つまりストーリはおまけ程度です。更に個性的なキャラクターが後先を考えず次々と登場します。「要は楽しめればいい」という割り切ったスタンスに好感が持てました。

なぜ10話で終わってしまったのでしょうか。おまけ程度とはいえストーリーとは全く関係がない、明らかに不自然な最終回でした。「大人の事象」ということなのでしょか。

拍手[0回]

これはゾンビですか?




変態ネタはなかなかのハイセンスです。結局は下ネタが面白いと思ってしまう私はまだまだ子供なのでしょうか。
しかし、まじめなストーリー部分を中途半端に重視したがために、最終回が近くなるにつれよくわからない感じに。「主人公がゾンビで魔装少女で、吸血忍者もいて・・・」というゴチャゴチャ設定もあえてゴチャゴチャにしていいるんだろうし、私は好きです。ですが、ストーリー重視パートに入るとこのゴチャゴチャ設定はノイズ以外の何ものでもありません。

あと、個人的にやめてほしいのが「不死身の主人公が根性のゴリ押しで敵を倒し、ツンデレヒロインとなんだかいい感じに・・・」という流れ。もう飽き飽きです。



拍手[0回]

日常





心地よいシュールさとテンポのよさが癖になります。

基本的には、「日常よくありそうなことを取り上げ、些細な心情をどこまでも大げさに表現する。」といったギャグ主体のアニメ。しかし、このアニメは他のギャグアニメとは一線を画した存在感があります。一言で言ってしまえば「シュール」なわけですが、この「シュール」が絶妙なのです。
一見無意味に散りばめられたようにも感じるシュール表現ですが、実はこのアニメの本筋である「些細な心情を大げさに表現する」ことに一役買っているのだと思います。
例えば、「登校中のゆっこの頭に、こけし→あかべこ→生シャケが次々と降ってくる」という場面。当然こけし、あかべこという選択がシュール(生シャケに関しては事前に「まさか生ものは降ってこないよね。」というゆっこの発言がフリになっているのでシュールには含みません)なわけです。「空から降ってきたものが頭に当たる」という理不尽な不幸を受けたゆっこのやるせない感情。こけし、あかべこ、というどこかポップで的外れなアイテムを使うことで、この「負の感情」や「当てどころのない怒り」が反作用的に強調されているのです。
このように意味のあるシュールもあれば、意味のないシュールもふんだんに盛り込まれています。意味のないシュールも不必要なわけではありません。全体としての画の面白み、テンポのよさ、オシャレさ等に貢献しています。

そもそもシュールとは何か。「シュルレアリスム」の話になると私の許容範囲を超えるので、あくまでも「シュールな笑い」というものがすでに独立していると仮定して考えます。
私は「シュールな笑い」=「やりっぱなしの笑い」だと思っています。いわゆる「ボケ」「ツッコミ」でいうと、ツッコミを完全に排除したかたちになります。ツッコミといっても様々な形式があります。誰かが間違いを指摘するパターンだけではなく、ボケによって何らかの災難が起きるだけでもツッコミにと同じような役割を果たします。つまり、「今のはおかしですよ」ということを視聴者に説明することがツッコミの役割なのです。
ツッコミがない「シュールな笑い」はツッコミを視聴者に任せていることになります。視聴者はどこがおかしいのか自分で判断して心の中でツッコムことになります。これが「シュールな笑い」の本懐なのです。自分でツッコミを入れたときに視聴者は面白さと同時に、「この笑いを理解したぞ。」という満足感を味わうことができるのです。シュールな笑いに面白さだけではなく、カッコよさやオシャレさを感じるのはこのためではないでしょうか。

アニメ『日常』に話を戻します。『ラブ的』というミニコーナーみたいなものがあります。「青春の甘酸っぱいシーンや心温まるシーンを切り取る」という笑いなしのコーナーなのですが、上のような考え方をすればシュールな笑いであるとも言えます。ギャグアニメの中で唐突に笑いなしコーナー。「急に真面目だなっ!」と心の中でツッコミが入ればこれも立派なシュールになるのです。
観る人によってとらえ方も様々。これがこのアニメ、ひいては「シュール」の魅力ではないでしょうか。

拍手[0回]

カレンダー

11 2024/12 01
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

フリーエリア

最新CM

[04/27 らるず]
[04/27 しはんく]

プロフィール

HN:
らるず
性別:              メンズ

バーコード

ブログ内検索

P R

忍者アナライズ

カウンター