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ひぐらしのなく頃に解



(ネタバレあり)

このアニメの一期と二期を両方見た人なら「ひぐらしってどういうアニメなの?」という質問に答えることが、とても難しいということが分かるはずだ。少なくとも二期まで視聴していれば単に「残虐なアニメ」と言い切ってしまうことはできないだろう。一期では、嘘のようなに露骨な萌えシーンと、嘘のように残酷なシーンという2つの顔を持っていたが、2期ではまたそのどちらでもない「作り込まれた時間ループもの」というタイプのアニメに変化している。私が感じた印象では、これら三つの要素がまるで別々のアニメのように存在しているように感じた。良く言えばここまでバラエティに富んだアニメは珍しいし、悪く言えば1つの作品としてまとまりが感じられない。どちらにせよ「ひぐらしってどういうアニメ?」に一言で答えることはできそうにない。


一期の最終回のあと、実は謎の災害が起き村が壊滅していた。というところから話が始まる。
二期を見始めれば、一期の後味の悪かったハッピーエンドにもようやく納得がいくようになる。要はまだバッドエンドのループは終わっていなかったわけだ。
また、二期からは時間ループの記憶を引き継いでいる古手梨花目線で話が進む。一期と決定的に違うのは、この古手梨花が記憶を引き継いでいるということは、視聴者側に非常に近い目線であるということ。一期では断りなく時間が繰り返されることで、視聴者側としては漠然とした不気味さや不安感を感じる演出だったわけだが、二期からはストーリー上繰り返しも肯定されているので、客観的にストーリー全体を見ることができる。
この状況は一期の最終回付近、ループが明らかになったところから始めっている。そこでも書いたが、この時点で、もう狂気的な展開にはならないということは、なんとなく分かってしまう。二期でもそれは変わらず、あのスリリングさはもうない。その代わり、作り込まれたストーリーをしっかりと味わうことができるという作りになっている。


「解」のおもしろさは、とにかく時間ループものとして完成度の高さだ。
一期では5回ほど同じ時間をくり返している。ここで蓄積されたストーリーがすでにあるものとして解は始まる。そのため、最初から「なるほど、こういうことだったのか!」を感じることができる。また、5回の繰り返しも全く同じものをくり返しているたわけではなく、起こる事件や誰目線かということが大きく違っている。そのため、どれが繰り返しの本筋で、どれが派生した展開なのか、また、どの発言が真実で、どの発言が嘘妄言なのか、ということがよく分からなくなるほど複雑化しているのだが、それがかえって作品全体に一本調子ではない広がりを感じさせている。そしてそれを見事にまとめているから、「ほんとはこう考えてたんだ」とか「あれは嘘だったんだ」とか、いちいち感動できるわけである。


ループもの特有のカタルシスもしっかり感じることができた。
別の時間軸では敵だった人物とも分かりあう方法に気が付いていくことで、最後は一丸となって黒幕に立ち向かっていく、という展開も、一期での鬱展開を散々見ていることがフリになってひとしお感動できる。特に良かったのは、曲者ベテラン刑事の大石が、自分の人生をなげうって古手梨花に協力することを決めたところ。別の時間軸では、強引な捜査で危険人物のような扱いを受けることもあったが、その時も現在も刑事としてのプライドという一貫したものがあったんだということまで理解できる良いシーンだった。


良くないところもそれなりにある。
基本的には一期の最終回で言いたかったことと同じなのだが、主人公はじめ5人組が活躍しはじめるとどうしても茶番っぽくなってしまう。特殊部隊と明らかに不利な対決をするというシーンで、普段の遊びで培った能力で特殊部隊を全滅させるのだが、さすがにそれはない。警察とかも見方についているという状況でそれをありにしてしまうと、強さのバランスが崩れて緊張感がガタ落ちになってしまう。それこそ「もう絶対に誰も死なないな」と確信てきてしまう。同じようなシーンでは、東京から来た警察の赤坂が明らかに世界観を逸脱した戦闘能力で敵をなぎ倒していく場面、これはもう笑うしかなかった。
それから細かい話になるが、主人公前原圭一の「女の子の頭をなでる」という癖、これはどうなのよ?と言いたい。一般的に考えればこの行動は、「モテたくて仕方ない、いやみな男のやること」というイメージが強いと思うのだが、当時は違ったのだろうか。まあ、いずれにせよ主人公の雰囲気はあまり好きにはなれない。


少し余談だが、一期二期ともにOPがとても良かったと思う。
個人的には一期OPがかっこよくて特に気に入ったが、一期二期どちらにもいえることは、曲調や歌詞で、本編の内容が一発で理解できる、ということ。一期OPは「呪いと殺人とが起きて、この村からは逃げられないんだな」ということがすぐに分かるし、二期OPは「運命から抜け出そうとしてて、辛いこととか悲しいことがあるんだな」ということが分かる。
アニメソングというものはこれくらい本編とのつながりが強い方がいいのだと思う。


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ひぐらしのなく頃に


(ネタバレあり)

とある村で起こる、祟りやそれに乗じた殺人、何も知らずに転校してきた主人公がそれに巻き込まれていく。というタイプのストーリー。この設定はアニメ界(だけではないかもしれない)ではテンプレートとして確立しているようだ。私が見た中ではAnother、数年前にやっていた「犬なんとか」みたいなタイトルのアニメ(どうしても思い出せない)、それからBLOOD-Cとかも似たようなジャンルに入るのだろうか。そのあたりのアニメと比べてみると、ひぐらしのなく頃には色々な要素で密度感が桁違いだと感じた。やはり、有名どころのアニメにはそれ相応のエネルギーがある。

ひぐらし一期最大の特徴は、作品の枠をこえた躁鬱の繰り返しだ。
主人公は転校してすぐに仲良し4人組の仲間に入ることになる。この4人は、なぜか可愛い女の子ばかりなわけだが、このメンバーとの日常パートが胸糞が悪くなるほどキャピキャピ感なのである。Another等はこの段階でもどことなく不吉な雰囲気というものがあったが、ひぐらしにはそれが一切ない。明らかに萌えに特化したアニメ然とした演出で、このあと悲劇的なことが起こるということがどうしても想像できない。この部分が「躁」である。
そんな中、主人公が触れてはいけない話題にふれると、雰囲気は一変する。さっきまでキャピキャピだった女の子たちが、まるで別人になったように不吉なオーラを醸し始め、主人公は自分が殺されるのでは、と疑心暗鬼に陥り、ここから一気に「鬱」の展開へと落ちていく。この部分の過剰すぎるほどの恐怖演出がこのアニメの魅力の一つだ。「こわすぎて笑ってしまう」という表現が適切かどうか分からないが、キャラクターの一貫性というルールを無視した、ある意味反則といってもいいほどの豹変ぶり。表情の歪ませ方も突き抜けている。そりゃ怖いわ!とツッコみたくなる、そんなインパクトがある。
主人公の疑心暗鬼はさらに増していき、結果、友人二人を撲殺し、自身も気が狂って首をかきむしり自殺する。
問題なのは、この時点でまだ4話であるということだ。明らかにバッドエンド最終回なわけだが、5話目に入ると何事もなかったように、転校後に時間は戻り、またあのキャピキャピパートが始まる。え?え?と思ってみていると、また数話後には別のかたちで大虐殺が起こる。実は一期はほぼこの繰り返しで構成されているのである。くり返しに対しての説明が全くないことと、キャピキャピ→虐殺→キャピキャピ→虐殺→・・・・と嘘のような躁鬱までくり返されることで、いい意味で精神的にくるものがある。


ひぐらしといえば残酷シーンがある、というイメージが強い。私もそれは知ったうえで視聴したが、実際は私の想像のさらに上を行くものだった。ここに関しても、同ジャンルのアニメとはメーターの振り切り方が全く違う。そもそも、ここまでやって放送できるのかと感心するほどである。いちばん見ていてきつかったのは、やはり園崎家の拷問関連のシーンだ。例えば専用の器具で爪を剥がすシーンは、まさかの剥がれる瞬間をそのまま見せるという演出がされている。また、単に「痛そう」というだけではなく「笑いながら友人を刺す」など、拷問する側の狂気を感じさせることで恐怖が何倍にも増しているようだ。

一期に関しては本当に極端なアニメだったと思う。
躁鬱を何度も繰り返したと思ったら、最終回で突如そのどちらでもないテイストに変わる。しかもそれが驚くほどつまらない。それまでの雰囲気はどこに行ってしまったのかというほどの大茶番劇だ。厳密に言えば最終回一話前、4人組の一人が実は繰り返していた時間の記憶をすべて残していたということが明らかになったところから雲行きが怪しくなる。「どうすればこの運命から抜け出せるの」みたいな展開になるのだが、こうなってしまった時点で、もう狂気に満ちた展開にはならないんだな、ということがなんとなく分かってしまう。フラグというのは難しいものだ。それまでの「いつだれが狂ってしまうのか」という緊張感は無くなってしまったわけである。
さらに最終回はコレジャナイ感しか残らないもので、例えば、人質事件(犯人は友人の一人)が起こるのだが「俺たちでこの状況を乗り切るんだ」と力を合わせてなんだかんだで犯人を出し抜き、最後はバトルものアニメのような犯人との戦闘シーンが繰り広げられる。それまでは、殺意を持たれたら終わり、だったはずなのだが・・・。あげく「仲間を信じればどんな壁だって乗り越えられる!」という締めくくりに。要はとてつもなく強引によくあるハッピーエンドに持っていかれたわけだが、まだ二期を見ていないいじょう、このッピーエンドほど後味の悪いものはない。


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紅 kure-nai



 

こういうアニメをもっとやって欲しいのになあ。というのがつい先日このアニメをみた感想。

少しドライな感じの主人公真九郎と、世間知らずの少女紫、この二人がだんだんと心を通わせていく。こういう感じ人間ドラマに私は妙に弱い。
はじめこそ「仕事ですから」というスタンスで紫に接する真九郎だったが、いつしか紫を何よりも大切な存在であると感じるようになる。一方紫も真九郎と生活するうちに、質素ながらも人間らしく生きるということの幸せを知っていく。「冷たかった心が少しずつ温まっていく」という様子がなんとも胸にしみるのである。

しかしその生活は長くは続かない。そして最後は紫を守るためだけに無謀な戦いに挑む。文句なしに感動するストーリー展開ではないか。
そんな彼を粋に送り出すアパートの住人たちや、なんだかんだで力を貸してくれるもめごと処理屋の面々。そして、幼いながらはっきりとした意志を持って、新九郎のために自分を犠牲にしようとする紫。本当に人と人のつながりって素晴らしいと思わせてくれる、そんなアニメ。

会話のおもしろさもこのアニメ目の特徴。まさに「掛け合い」というべき感じで、短い単語のやりとりのテンポがとても良く、ギャグアニメのそれとは一味違う品の良いユーモアも漂う。この要素が日常パートのおもしろさを増しているのであろう。

強いて欠点を言うなら、もっとたっぷり時間をとってやって欲しかったということだろうか。
真九郎の腕の件、もめごと処理屋って何?という件、その他サブキャラクターにも隠れたエピソードがありそうな件、できればそのあたりについてももっと掘り下げてほしかった。ほぼ本筋のストーリーのみが展開している感じだったのだが、サブストーリーというのもそのアニメへの埋没感を高めるには重要な存在だ。




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惡の華




放送前から流れていた不気味なCMのおかげで、なんだか気になる存在ではあったこのアニメ。実際に見てみると、実写をもとにした不思議な映像(ロトスコープと言うらしい)と、アドリブか?と思うような奇妙なテンポの会話が続く。

「変態」というのが大きなテーマで、主人公が変態になるまでの過程が描かれる。なんだそれ、と思うかもしれないが、主人公のリアルすぎる思春期感とによる強力な感情移入によって想像以上に引き込まれる。とくに7話の変態が爆発するシーンは、鳥肌が立つほど芸術的だった。まさか、変態でカタルシスを感じることになるとは・・・。強いて悪いところを言えば7話以降若干ダレたことくらいだろうか。

ここ1年くらいでは最もアツくなったアニメかもしれない。言いたいこともたくさんあるのだが、2期があるようなので(途中でプツっと終わってしまった)細かい話はその時に書きます。

ところで、中途半端なところで「2期に続く」になってしまったことに批判が集中しているようだが、そんなに怒ることではないような気がする。たしかに2クール続けるに越したことは無いが、それができないのだとしたら、中途半端な大団円をむかえるより、完全な2部構成でプッツリ終わる方が自然なのではないだろうか。まあこれで2期をやらなかったとしたら最悪なのだが。

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彗星のガルガンティア



まず、とても良かったのが背景の美しさ。舞台は陸地がない未来の地球で、人間は巨大な船(ガルガンティア)の上で生活している、という設定。一目見て感動的なのは、海のエメラルドグリーン、空のスカイブルー、ガルガンティアの白、オレンジ、黄色、と背景の色が限定されていて、これがとても美しいということ。最も広い面積を占める青系の色に暖色のガルガンティアが鮮やかに浮かび上がる感じで、特にサビのオレンジまでそのバランスの一部になっているところなどは、よく考えられてるなと感心した。
それから作画の到達点も非常に高く、3話の海賊との戦闘シーンは、水しぶきに越しに見る照明の感じなどはFateZeroの戦闘シーンに勝るとも劣らない完成度だった(と思う)。ただ、迫力のある戦闘シーンという意味では後にも先にも3話が最後だったようで、その後の尻すぼみ感は否めない。
ストーリー面では主人公レドの圧倒的な価値観の違いが面白かった。「ジブンガシタイコト?イミガワカラナイ・・」本気で言ってるのか?とは思ったが、生まれたときから戦うことだけをすり込まれたらそうなるのかな、と妙に納得してしまったりもする。それほど我々からすればありえないような生き方をしてきたということなのだろう。それにしてもあんなにもロボットのようになれるのか?とは思うが。4話のべベルが吹いた笛の音色で、人間的感情が湧きあがり突然涙を流すシーンとかは、まるでタチコマがオイルの涙を流したシーンをみたときのような気分になった。このあたりが序盤の見所で、価値観の違いがあるということは「その差を埋めることができるのか」というのがその後のキモになってくるわけである。
それから、全体の雰囲気からするとやや不釣り合いなエロス要素は賛否が分かれそうなところだ。謝肉祭の話の「レド目の前でお色気ダンスを踊る」というシーンは「なんだこれ?」とは思ったが・・・。

そのあたりの理由で前半から中盤にかけては、おおむね期待できる内容だった。しかし、残念なことに終盤あたりからストーリー上の明らかな欠陥によって、作品全体の品位が台無しになる。私がストーリーにケチをつけるときは大抵が「とってつけたような恋愛要素」とか「偽善的な主人公」とかだが、このアニメに関してはそういうことではなく、ストーリーの根幹に関わる明らかな落ち度だ。
このアニメの大きなテーマは「姿や生まれ、考え方が違っても人間は分かりあえることができるのか」といもの。その象徴的な存在として、レドやヒディアーズが登場してくるわけである。そして、レドはガルガンティアの人々との交流で少しずつ人間らしい考え方を獲得し、ヒディアーズ(クジライカ)に対しても、辛い真実を知ると同時にその考え方は変わりつつあった。というようにテーマに対してはある程度希望を持てるような展開になっていわけである。
そんな時に登場したのが「クーゲル船団」。神への信仰心が強く、生贄をささげてしまうような、現在では絶対にありえないような価値観を持っている。と同時に、人間を生贄にするということは歴史上間違いなく実在したことで、そういった人たちもまた我々と同じ人間であるということも理解しておかなくてはならない。
そんなクーゲル船団に対する扱いが明らかに間違っているのである。
(このあたりからは見たことを前提に書きます。)
生贄をささげる様子を見てしまったピニオンの一言「やっぱこいつら無理だわ!」。いかにも「今までの俺、間違ってた。本当に大切なことがなんなのか分かったぜ。」みたいないい方で、ストーリ的にも、このセリフをきっかけに空気がガラリと変わる感じになっていた。要するに、「クーゲル船団」という絶対的な悪の存在が浮かび上がることで、フィナーレに向けてストーリーが加速していくつくりになっているわけである。しかし、これは明らかにおかしい。神を信じ続けてきただけの彼らが悪なのだとしたら、戦うことしか知らなかったレドも悪、人と分かりあえずに戦ってきたヒディアーズも悪、ということにならなければ筋が通らない。便宜上の理由だけで、あっさり切り捨てていい存在ではないことくらい、少し考えればわかるはずだ。理屈っぽく言っているが、自然に見ていても、それまでの流れからどう考えてもクーゲル船団が悪には感じられないのである。そのため「やっぱこいつらダメだわ!」と言われた時には正直「はぁ?」と思った。良いことみたいに言ってることに無性に腹が立つ。なぜ、前半の作画面ではあそこまでのクオリティをみせていたのに、こんなにも分かりやすい破綻をよしとしたのか、まったく疑問だ。
また、そこからの展開が「クーゲル船団=悪」を前提として進んでいくのでまるでしっくりこないものになってしまった。例えば序盤でガンガンティアを襲った女海賊が最後は一緒に戦うことになるのだが、この「はじめは敵だったやつが、真の悪の前では仲間になる」展開も、そもそもが揺らいでしまって、なんだかよく分からない感じになっている。
その他終盤の展開は、詰め込み過ぎた感が強く「この人は今、何を考えているんだっけ?」と混乱をしてしまった。

破綻しまくったストーリーの中ではチェインバーだけが最後までブレずにかっこいい存在だったのかもしれない。最後の最後で、「もう支援は必要ない」と言ってレドを強制的に脱出させ、単機で最後の決着をつけたシーンは、熱くなるものがあったし、作画的にも最初の頃の輝きを取り戻していたと思う。「AIが感情を持っているのかもしれない」という展開はもはや鉄板である。それまでが酷かっただけに何かホッとするような気さえしたのは私だけだろうか。

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