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私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!

 



まずタイトルだけを見たとき、私の駄作アニメセンサーが反応したというのは言うまでもない。「俺の妹が~」のヒット以降あからさまにこの手のタイトルが増えたが、「とりあえずタイトルで釣っとこう」という志の低さが見え見えだからだ。俺妹以降は、キャラは魅力的だったりするんだけど決して大当たりはしない。この手のタイトルはそういうタイプのアニメの目印となっていたわけだ。
しかし、このアニメは例外であったといえる。まず私の予想を裏切ったのは、このアニメが純粋なコメディアニメだったということ。(ここではあえて「ギャグ」ではなく「コメディ」という言葉を使いたい)そしてコメディとしての完成度が非常に高い。正直、アニメを見ていてこんなに面白いと感じたのは初めてだ。私は基本的にアニメを見ていても声を出して笑うことは無いが、今回は普通に笑いながら視聴してしまった。


大まかな内容はタイトルの通り「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」と考えている女の子が高校生になり、リア充の仲間入りを目指すというお話。「どうせモテないとか言っても、それは最初だけでただの萌えアニメになるんだろうな」となんとなく思っていたが、このアニメの主人公は徹底的にモテない。モテないというか要は極端な人見知りということなのだろうとは思うが、とにかくそしてその感じがものすごく共感できてしまった。例えば1話の「一人でマクドナルドに来たら、クラスのリア充グループが入店してきた」という場面で、なんとか見つからないように店から脱出しようとする感じとかは、共感でき過ぎてシビれるものがあった。人見知りにとっては些細なことがサバイバルのようになるわけだ。そもそもなぜ見つかってはいけないのということもおかしなことだが、とにかく見つかってはいけないのだ。それから中学時代の親友に電話をかけ、そのたびに落ち込むはめになるというシーンがよくあるのだが、仲の良い人ほど絶対にこちらからは電話をかけないというポリシーを持っている私からすると「だからいきなり電話はダメなんだって」とひとりヤキモキしながら見てしまうのである。(この感じは理解できる人だけ理解できればいいと思う)
主人公のセリフは実は9割方心の声だというところも残酷なリアリティを感じる。実際に他人と話すセリフはことごとく蚊の鳴くような声になってしまうのだが、もしこのアニメから心の声をとったら、まったく成立しなくなってしまうということに気付くとなんだか虚しい気持ちになる。
こういう感じのネタが尽きることなく詰め込まれているのだが、私にとってはこれだけで感動的といってもいいほど共感でき同時に面白いものだった。


このアニメの凄いところは、人見知りネタの優秀さだけでも最高に面白いというのに、それを乗せるストーリーが他のギャグアニメの構造とは根本的に違い、かつ非常に練られたものであるということだ。一般的にギャグアニメというものの笑いのとり方は「ギャグ」という言葉にふさわしく、その場限りのおもしろ要素をポンポンポンと並べていくような構造のものが多い。言うなればバラエティ番組見られるような偶然の笑いに近いものがある。しかし、アニメというものにはストーリー性を付けることができる。ストーリーで感動できるのと同じように、笑いをストーリーから生み出すということも本来は可能なわけだ。そのことを見事にやってくれているのがこのアニメの素晴らしいところである。
1話の中でキッチリ最後に大オチがくるように計算され、それに合わせて見事に「フリ」の部分が展開される。例えばよくあるストーリーのパターンで言うと、主人公黒木智子がリア充になるための方法を自己流で見つけ出し「これで私もリア充に・・・」と確信して突き進み始める。この方法があからさまに間違っていて、視聴者からすると「これは絶対に失敗するぞ」という期待感を煽る感じが絶妙にうまい。「志村うしろうしろ!」のおもしろさに近い感覚なのだろう。
そして智子は視聴者の期待に答えるように見事に作戦を失敗し、結局いつものように落ち込むはめになる。持ち合わせた不幸体質も相まって畳み掛けるように不幸が押し寄せるあたりが1話分のフィナーレとして最高に面白い。
私が大切だと思うのは、いつも失敗の原因は主人公のちょっとしたミスや考えの甘さからきているということ。これのおかげで主人公は落ち込んでいるというのに「バカだなぁ」というスカッとした面白さが生まれるのだと思う。
このようなストーリーに根差した笑いをやっているアニメというのはとても少なく、私の知る限りではこのアニメと近い展開をやっているのは意外にも『ちびまる子ちゃん』(原作にある話)くらいではないかと思う。


今回私はこのアニメの「人見知りネタ」に猛烈に共感したわけなのだが、メディアから提供されるものでこれほど強く共感したのは人生で2度目だ。ちなみに一回目は伊集院光のラジオでやっていた「リストカッターケンイチ」というコーナー。些細なことですぐに落ち込んでリストカットしてしまう少年の物語を募集するコーナーで、私はこのコーナーが面白すぎたことがきっかけで現在もラジオが生活に欠かせないものにまでなっている。しかし、リストカットというのがよろしくなかったのか、残念なことに何のアナウンスもなくこのコーナーは終わってしまった。
このアニメにもリストカッターケンイチにもいえることだが、「もはや自分のこととしか思えない」というレベルの共感ネタを見たとき、よくある「あるあるネタ」で笑っているときとはまた違う感覚を覚える。笑っていることに違いはないのだがその成分が「おもしろい」よりむしろ「うれしい」が勝っている。世の中に自分と同じ考え方をしている人がいるんだ、ということが確認できるだけでこんなにも安心できるのかということは、経験してみないと分からない。
何が言いたいかというと、最近アニメを見ていると「主人公は友達が少ない」という設定が濫立しているが、たいていその設定は「なんとなく主人公が成長して・・・仲間ができて・・」とか「結局ヒロインがデレはじめて・・」というようにとってつけたようなハッピーエンドを迎えることになる。「そういう主人公に感情移入してせいぜいウハウハしてくださいね」ということなのだろうけど、少なくとも感情移入という意味ではこういうやり方をされても心に刺さるものは何一つ無い。逆にこのアニメのように主人公が報われるような話でなくても、「自分と同じ考え方の人がいる」ということが分かるだけで、こんなにも面白く結果的には励みになるのだということをライトノベルや漫画をかいている人にはぜひ理解してほしい。

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GUNSLINGER GIRL






イタリア政府・首相府は、表向きには障害者への様々な支援を行う組織として公益法人「社会福祉公社」を設立する。しかしその実態は、身体に障害を持った少女たちを集め、身体の改造と洗脳を行い、反政府組織に対する暗殺をはじめとした超法規的活動を行わせる闇の面を持った組織だった。少女たちは、「義体」と呼ばれる人工の肉体と引き換えに、時に危険すら顧みられることなく銃を手に戦う運命を背負わされた。(wikioedia)


いつも理屈をこねて文句ばかりを書いている私だが、GUNSLINGER GIRLは珍しく手放しに良かったと言いたい作品のひとつだ。
全体は暗い雰囲気で、常に悲しさが付きまとうのだが、その中で一瞬感じられる人間味を感じるシーンに胸が熱くなるストーリー。さらに、ストーリーの魅力引き立てるBGMやセリフの言い方などの演出。毎話を飽きさせない構成。13話で終了したとは思えないほど胸に刺さる最終回。など、総合的に見ても非常に完成度が高い。自信を持ってお勧めしたいアニメである。
ちなみにこのアニメは2期も存在するのだが、もしこれからこのアニメを視聴しようと思っていて、1期2期ともに楽しみたいという人には、まず2期から見ることを強くおすすめする。その理由については後で説明することにする。


「女の子が銃を持って戦う、そして凄く強い。」アニメや漫画では比較的よくある設定だ。GUNSLINGER GIRLもパッと見ではそういったジャンルに入るのかもしれない。一般的なこの系統のアニメは銃と女の子のギャップで「女の子が可愛い、もしくはその裏返しでカッコいい」といった趣向が強く出ている。しかし、このアニメの戦闘シーンは「子供が戦うなんてどうかしてる」という印象を常に感じる。かっこよさや可愛さより、むしろそういった不条理を感じさせる演出がされているのだ。その時点で単なるガンアクションアニメであるという認識は捨てるべきだ。このアニメは心理描写メインの非常に文学的な作品であるといえる。ガンアクションはあくまでも作品全体にリズム感を出すためのアクセントのようなものと考えた方がよい。


このアニメを見ていると、少女たちのあまりにも辛く悲しい境遇に幾度となく胸を締め付けられ、やりきれない気持ちになる。「条件付け」と呼ばれる洗脳によって彼女たちは過去の記憶を失い、戦闘の道具として都合のよい感情のみが植えつけられている。悲しいのは、それが彼女たちにとって必ずしも不幸というわけではなく、道具として扱われることに幸せを感じてしまう、洗脳というもののそういった側面を描いているということだ。義体それぞれにつく担当官に対しての強い忠誠心と愛情も、条件付けによって植えつけられたものなのか、本当にそう感じていたのか、本人にもその境界すら分からない。そういった漠然とした葛藤にさいなまれることもありながら、それでも限られた感情と環境の中で必死に「普通の女の子」として生きようとする少女たちに、大げさではなく「生きることの意味」について考えさせられる。


作品全体は、中盤くらいまでは各フラテッロ(義体と担当官のコンビ)に着目したオムニバスに近い作りになっている。担当官によって義体の扱い方はことなっていて、例えばメインキャラクターであるヘンリエッタの担当官ジョゼは、極力条件付けによる強要はしないで普通の生活をさせたいと考え、エルザの担当官ラウーロは義体を徹底して道具として扱っている。各エピソードは担当官目線で展開するものも多い。一見冷酷に感じられる担当官も、洗脳によって忠誠を得ているということに矛盾を感じ苦しめられている。心の底ではそんな感情を持ちつつ非情な態度をとる担当官と、愛情を得ることはできないと分かっていても忠誠を尽くすことしかできない義体の関係性というのがエピソードのキモである。この関係性が大きく変わることはないが、そんな中で一瞬でも義体に対して素直な感情をみせる担当官のシーンなどが、それだけで彼らは幸せだったのかもしれないと思わせるような、絶妙な感情の推移が各エピソードに感じられる。


最終話は決して大団円というわけではない。さんざん書いたように、彼女たちの悲しい境遇はこれからも変わることは無い。ラストでは、そんな義体たちが流星群の鑑賞をしながらベートーヴェンの第九を合唱し、その一方で、短い寿命を迎えようとしているアンジェリカに担当官のマルコ―はそれまでの時間を取り戻そうとするかのように、手作りの絵本を必死に読み聞かせる。要は、それまでのエピソードと同じく悲劇的で、しかしその中の少しの希望が感動的、という作りをくり返しているわけだが、そこにアンジェリカの死という大きな区切りと、第九の力を効果的に生かすことで芸術的なシーンに昇華させているのである。この最終回のおかげで、1クールだけのアニメとは思えないほどの、壮大な後味を残している。最後まで抜かりない作りには脱帽した。


何かを褒めようとしたときに他の物の悪口を言わずにはいられない、というのあまり良いことではない。しかし、このアニメの雰囲気づくりの優秀さを語るうえでは、2期のガッカリと比較するのが最も分かりやすい。
1期と2期では製作会社が違うらしく、そのせいでストーリー以外は何もかも違う。簡潔に言えば2期は何かと「普通のアニメ」になってしまった。逆を返せば1期がいかにストーリーに即した特殊な世界観を演出できていたかが分かる。2期で最も違うと感じたのは義体たちの声としゃべり方だ。2期はいわゆるよくある「アニメ声」、明らかに萌え要素が強くなっている。それに対して1期はボソボソと「棒読み」だ。一見棒読みは良くないように感じるかもしれないが、感情をコントロールされている義体たちがぎこちなく普通の女の子の会話を演じようとしているように見えて、何気ない会話シーンにもそれとなく悲しげな意味が発生する演出になっているわけだ。それから2期では義体の心の声を安易に聞かせてしまっている、これも良くない。条件付けという謎の技術で義体の心の中がどうなっているかなんて、分からない方が自然だ。
これ以外にも、キャラクターの絵、BGM等何もかもが1期ではバッチリと世界観を作り上げ、2期ではそれが崩壊している。最初に書いたが、このアニメを1期2期ともに楽しみたいなら2期から先に見るべきだ。1期→2期の順でみてしまうと、よほどの精神力が無いかぎり、2期1話を最後まで観ることすら難しいだろう。こういう言い方はしたくないが「2期が1期の冒涜になっている」と言ってもいいほどガッカリしてしまうからだ。
しかし、冷静になって2期を見てみると(私はリアルタイムで2期を先に見た)、ストーリーはぶれていないし、こちらも普通に面白い。とくにトリエラの活躍が見られるというだけでも見る価値はある。とにかく1期が良すぎたというだけで、2期だって捨てたものではないのだ。ガッカリしないために美味しい方は後に残しておこう。

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ソ・ラ・ノ・ヲ・ト





テレビ東京『アニメノチカラ』枠で放送した第一弾のアニメ。『アニメノチカラ』はその後第三弾まで放送し、たいした話題を呼ぶことも無く終わってしまいました。フジテレビ『ノイタミナ』と比べてしまうと個性が感じられないし、わざわざ枠をとっている意味も視聴者側からするとよくわかったので終わってしまうのも仕方なかったかなと思います。

さて、ソラノヲトについてですが、実は私の中ではギリギリ指折り数えられるくらい好きなアニメのひとつだったりします。しかし同時に大きな声で「あれは良かった」とは言いにくいアニメでもあります。世間的なこのアニメの評価は「まずまず」「意外と良かった」程度のものが多いようです。世間の評価と自分の評価がずれているというだけでも少し不安にはなるのですが、このアニメについて私が口ごもってしまう最も大きな理由は、自分自身で自分の評価が高い理由が分かっているからなのです。
誤解を恐れずに言うと「女の子しか出てこない」ということが最大のポイントです。これについては色々あるのですが、要するに私の性分として男性キャラの扱い次第で例え良いアニメだっだとしても肝心な部分が頭に入らなくなってしまうことがあるというのが問題なのです。「女の子が出てくると良い」のではなく「男性キャラがいないに越したことはない」ということです。当然、男性キャラがいるアニメで好きなものもたくさんありますが、評価が決まるまでの一番最初の分岐点に「男性キャラの扱い」があることは間違いありません。
前置き(言い訳)が長くなりました。女の子だけだからといって評価がプラス方向に動いているわけではないということだけ踏まえて頂ければと思います。一応、5つ星評価は減点方式で付けていますので。

ソラノヲトは私の好きなアニメでもあり、記憶の変な引き出しに入っているアニメでもあります。まず純粋に誰もが評価するであろう点として建物、街並み、背景の素晴らしさがあると思います。舞台は崖に面した小さな町とその上に立つ砦です。中世ヨーロッパ風(たぶん)の建物と廃墟が岩の上にそびえている感じで、これは良い意味で「ジブリ的」で世界への没入感があります。さらにタイトルからも連想される「空」も崖とのコントラストがとても美しく感じました。
そんな美しく「ジブリ的」である世界にいるキャラクター。ここが賛否を分けそうなところです。放送当時は「けいおんじゃん」などと話題にもなりました。確かにこの世界観にこのキャラデザインはやや不自然です。私はこの違和感がむしろ面白かったりするのですが、世間の評価が「そこそこ」止まりなのはこのあたりが原因なのだと信じたいところです。
最初から終盤に入るまで主に描かれているのは、この「カワイイ兵隊達」が過ごす辺境の戦闘とは無縁となっている駐屯地での日常です。このアニメを単にほのぼの系アニメとして楽しむこともできるでしょう。しかし、どうしても気になってしまうのは、その日常の下に渦巻く底知れない「何か」なのです。なぜ戦争なのか、なぜジブリ的世界観なのか、そしてこのアニメには「人類は一度滅びかけ、文明はリセットされている」という設定があるのです。本編ではたまにしか触れられないのですが、明らかに過去の人類への含みを持たせてあります。「天使のような何かに滅ぼされた」ということ以外、はっきりとした答えは与えらず解釈は視聴者に任されているのです。
ここまでの謎を潜ませておきながら表面上は萌えアニメであるというところが非常に怖いです。日常パートをニヤニヤしながら観ているような堕落した視聴者に何か大きな罰が待っているのではと勘繰ってしまうほどです。考えすぎかもしれませんが、この方が楽しめると思います。

この予感はある程度現実になり、終盤には平和だった砦にも戦争の波が押し寄せます。
ここからの展開はかなり重厚で、普通に感動します。特に途中で使われる音楽が非常に効果的に感じました。劇中歌「アメイジング・グレイス」は戦争の敵、味方関わらずすべての人の心に響きます。この曲は一説では19世紀アメリカで誕生し、現在ではアメリカだけでなく日本でも数多くの歌手によって歌われるなど、馴染みの深いものになっています。これはアニメ内でこの曲が戦争中の2国をつなぐ架け橋となっていることに通じるところがあります。さらに現実にもある曲を使うことで滅んだ旧時代(現在)からのつながりも感じることができるのです。もともと良い曲だからということもあるかと思いますが、最後にこの曲が流れる時の鳥肌感はなかなかのものです。あと、曲とのからめ方という点では、梨旺との別れまでの件の感じも感動しました。(曲優先でセリフの音が無くなるところとか)
ちなみに前々回更新した『エルフェンリート』も曲が素晴らしいみたいなことを書いたのですが、エルフェンリートもソラノヲトも監督が神戸守さんだったみたいです。製作側のことはあまり気にしないようにしていたのですが、どうやら私は神戸守さんの演出が好きみたいです。

ソラノヲトは『灰羽連盟』というアニメの影響を受けているのでしょうか?改めて観てみてそんな気がしてきました。
言われてみれば似ている部分が色々とあります。大きな部分でいえば、舞台となっている町以外の世界に相当な含みを持たせている点や、主人公たちは町のはずれに町人とはとは少し違った存在として生活しているという点などがあります。また、主人公たちの暮らす建物が廃墟にちかいところや、先輩たちから脈々と継がれるものがあること、天使が登場することなども似ている点です。それからキャラクター面では梨旺とレキの存在感も似ていたと思います。
灰羽連盟はどこまでも抽象的に描かれていた内容でしたが、ソラノヲトはその答えの一つのパターンだったと考えることはできないでしょうか。

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けいおん!! (けいおん!)+映画けいおん!





一期と二期まとめての評価です。二期まで見ないと「けいおん!」を見たことにはならないと思いますので。(あずにゃんがいなかった頃があったなんて、今では考えられません) 

前段からもお分かり頂けると思いますが、私も世の中の多数派けいおん好きのひとりです。所詮はその立場からの意見だと思ってください。

「けいおん」は世間的にも「いま大人気!!」みたいな感じで祭り上げられせいで、コア志向が強い人は食わず嫌いになってしまっている人も多いようです。しかし、良いものはは良いのです。AKB等が良い例ですが、世間的な評価が上がるとアンチが騒ぎ出すのは当然の流れです。アンチの主張は「それが持っている素質と世間の評価が合っていない、おかしいだろ!」というものだと思いますが、もともとファンだった人にとってはその主張は何の意味もないことですよね。あたりまえのことですがアンチとファンは絶対にあいいれない存在なんだなと思います。

そのアニメが良いとアニメだと思う理由は、例えばカッコいい、世界観が良い、ストーリーが良い、早く続きが見たくなる・・・等があると思いますが「けいおん!」の場合ここに当てはまるのは「好き」だから、なのだと思います。アイドルを応援する気持ちと近いものがあるのではないのしょうか。「好きになること自体に意味がある」的な。
冷静に考えてみればアニメ内でこれといったギャグもありませんし、ストーリーもゆるゆるです。しかしそれがむしろキャラクター達が「そこにいる」感を増しているのです。そのキャラクター達のいる世界の居心地のよさこそが「けいおん」の魅力の一つです。
前述したように「祭り上げ」をされたところで知ったことではないのですが、一つだけ弊害がありました。昼のワイドショーか何かで「けいおんには女性キャラクターしか登場しないんです。それが人気の理由の一つです。」みたいなことを言っていました。それは分かってる・・・わかってるけど言わないでほしい。でも、あえて分析すればその通りなのです。ギャグやストーリーがないという現実感に、可愛い女の子しか登場しないというある意味の都合の良い理想をうまく隠しています。これが居心地のよさの正体なのではないでしょうか。
変な言い方をすればこれは宗教に近いものなのかもしれません。余談ですが、日本のオタク文化がここまで発展したのは、日本に信仰が強い宗教が無いからではないかと思ったりしています。現実とは逸脱した存在を心の拠りどころにするという意味では神もアニメもアイドルも大差は無いのかもしれません。おかしな新興宗教にはまるよりはアイドルに熱狂している方がよっぽど平和で経済も潤うのではないでしょうか。

けいおん部のメンバー達と同じく、視聴者もこの居心地の良い「好き」な世界に終わりがあるということを忘れていたのではないでしょうか。それ故に後半からの「卒業」を意識させる場面で何度鼻がツーンとしたことか分かりません。受験で誰もいなくなった教室を映したりする演出は「そうだ、卒業するんだ・・・」ということを気付かせるには最適の方法だと思います。
既に見た人にとっては言うまでもないと思いますが、二期20話のあのシーンはもうどうしたらいいのか分からない気分になります。感動するやら悲しいやら、泣き崩れる澪がなんだか愛おしいやら「青春ってこうなんだろうな」と自分に青春の思い出がほとんど無いことにスーンとするやらで、思わず「あーーー」と声を出してしました。(小さな声ですよ)
終わってしまうのは悲しいですが、やはり終わりがあることで宗教から作品へと昇華できたのではないでしょうか。

急に軽い話になりますが、前段のフィギュアから分かるように私の好きな秋山澪について書いておきます。
澪の性格は恥ずかしがり、怖がり、乙女チック、というなよなよした感じです。しかしその性格とは裏腹にしゃべり方は男言葉で声も太め。このギャップがいいですよね。現実でこのギャップを持っている人はいないはずです。

(追記)
『映画けいおん!』について

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魔法少女リリカルなのはA's




『リリカルなのは』シリーズの第二弾、このシリーズの中で最も好きな作品です。いや、全アニメの中でもかなりお勧めの部類に入ります。同じくらいお勧めできるほかの作品と比べてみると作画や演出面ではこの作品が劣る部分が多いかとおもいます。しかし、その分作品としての根幹の部分が優れているのではないでしょうか。
「なのはの前に現れる敵、本当は戦いたくないけど・・・」という基本的な物語の構造は前作と同じで、前作の良かった部分をより洗練したような印象。物語終盤の感動はより一層増しています。

前作はなかなかのスロースタートで、物語序盤は幼女向けアニメの雰囲気でした。しかし『A's』では一話目から高い熱量でスタートします。前作のフェイトにあたる戦わざるをえない敵「守護騎士」の一人であるヴィータが早速登場し、なのはに襲い掛かります。やはり前作ありきで無駄な導入部分を省けるのは2作目の強みです。

この「守護騎士」ヴィータですが、私はこの人の存在が『A's』を感動大作にした要因の一つだと思っています。余談ですが私の好きな女性アニメキャラクターランキング第一位はヴィータです。(ちなみに2位はBLACK LAGOONのバラライカ、3位はCLAYMOREの微笑のテレサです。)ヴィータ最大の魅力は「ギャップ」です。ギャップと言えば前作ではなのはが子供感と大人感のギャップを見せましたが、ヴィータはそれを上回っています。守護騎士は人間ではないので年齢設定は無いと思いますが、見た感じではなのは達よりも年下な雰囲気です。ゆえに普段は無邪気で少しわがままな子供、主である八神はやてには特になついていて、甘えるようなシーンも数々あります。しかしヴィータの本質は「守護騎士」、わけあって生命の危機にある主八神はやてを救うために戦います。敵を前にしたときのヴィータには、なのはのような容赦はなく乱暴な言葉を吐きながら敵を殲滅しにかかります。この乱暴な戦いが、無邪気であるがゆえに「八神はやてを守りたい」思いに歯止めがきかない様子、もう引くことができない守護騎士たちの現状を効果的に表現しています。さらにヴィータが使う武器の選択もすばらしいです。「グラーフアイゼン」ハンマー状の武器で、ヴィータの感情に連動するかのように大きさが変わります。粗暴さと無邪気さを合わせ持ったヴィータのキャラクター性、更には小さな体でハンマーを振り下ろす様はヴィータの必死さをより強調しています。「非情な運命に、涙を流しながらも全力で巨大なハンマーを振り下ろす」というシーンはヴィータのすべてを凝縮したような名シーンだと思います。

ストーリ面も前作を踏襲しつつ、「交錯する運命」みたいなものをより効果的に感じさせてくれます。特筆すべきは「善悪の完全な50:50」ということではないでしょうか。前作では最後の敵となるフェイトの母親が、娘を思う気持ちからとはいえ悪役の雰囲気を醸していました。しかし『A's』では悪役はおろか悪役風な人すら登場しません(一瞬登場する仮面の戦士は別として)。なのは達と何度も衝突する守護騎士達は自分たちを家族のように扱ってくれる主の命のために戦っています。普通この場合、「守護騎士たちには慕われている主も実は危険な思想を抱いていて・・・」というパターンが多いのですが、主八神はやては守護騎士たちが自分のために戦っていることすら知りません。どのキャラクターの側からでも違和感なく感情移入ができるこの構造が「誰も間違っていないのに戦いが繰り返される」というやるせない状況を観ている側にもひしひしと伝えてくるのです。

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