一期と二期まとめての評価です。二期まで見ないと「けいおん!」を見たことにはならないと思いますので。(あずにゃんがいなかった頃があったなんて、今では考えられません)
前段からもお分かり頂けると思いますが、私も世の中の多数派けいおん好きのひとりです。所詮はその立場からの意見だと思ってください。
「けいおん」は世間的にも「いま大人気!!」みたいな感じで祭り上げられせいで、コア志向が強い人は食わず嫌いになってしまっている人も多いようです。しかし、良いものはは良いのです。AKB等が良い例ですが、世間的な評価が上がるとアンチが騒ぎ出すのは当然の流れです。アンチの主張は「それが持っている素質と世間の評価が合っていない、おかしいだろ!」というものだと思いますが、もともとファンだった人にとってはその主張は何の意味もないことですよね。あたりまえのことですがアンチとファンは絶対にあいいれない存在なんだなと思います。
そのアニメが良いとアニメだと思う理由は、例えばカッコいい、世界観が良い、ストーリーが良い、早く続きが見たくなる・・・等があると思いますが「けいおん!」の場合ここに当てはまるのは「好き」だから、なのだと思います。アイドルを応援する気持ちと近いものがあるのではないのしょうか。「好きになること自体に意味がある」的な。
冷静に考えてみればアニメ内でこれといったギャグもありませんし、ストーリーもゆるゆるです。しかしそれがむしろキャラクター達が「そこにいる」感を増しているのです。そのキャラクター達のいる世界の居心地のよさこそが「けいおん」の魅力の一つです。
前述したように「祭り上げ」をされたところで知ったことではないのですが、一つだけ弊害がありました。昼のワイドショーか何かで「けいおんには女性キャラクターしか登場しないんです。それが人気の理由の一つです。」みたいなことを言っていました。それは分かってる・・・わかってるけど言わないでほしい。でも、あえて分析すればその通りなのです。ギャグやストーリーがないという現実感に、可愛い女の子しか登場しないというある意味の都合の良い理想をうまく隠しています。これが居心地のよさの正体なのではないでしょうか。
変な言い方をすればこれは宗教に近いものなのかもしれません。余談ですが、日本のオタク文化がここまで発展したのは、日本に信仰が強い宗教が無いからではないかと思ったりしています。現実とは逸脱した存在を心の拠りどころにするという意味では神もアニメもアイドルも大差は無いのかもしれません。おかしな新興宗教にはまるよりはアイドルに熱狂している方がよっぽど平和で経済も潤うのではないでしょうか。
けいおん部のメンバー達と同じく、視聴者もこの居心地の良い「好き」な世界に終わりがあるということを忘れていたのではないでしょうか。それ故に後半からの「卒業」を意識させる場面で何度鼻がツーンとしたことか分かりません。受験で誰もいなくなった教室を映したりする演出は「そうだ、卒業するんだ・・・」ということを気付かせるには最適の方法だと思います。
既に見た人にとっては言うまでもないと思いますが、二期20話のあのシーンはもうどうしたらいいのか分からない気分になります。感動するやら悲しいやら、泣き崩れる澪がなんだか愛おしいやら「青春ってこうなんだろうな」と自分に青春の思い出がほとんど無いことにスーンとするやらで、思わず「あーーー」と声を出してしました。(小さな声ですよ)
終わってしまうのは悲しいですが、やはり終わりがあることで宗教から作品へと昇華できたのではないでしょうか。
急に軽い話になりますが、前段のフィギュアから分かるように私の好きな秋山澪について書いておきます。
澪の性格は恥ずかしがり、怖がり、乙女チック、というなよなよした感じです。しかしその性格とは裏腹にしゃべり方は男言葉で声も太め。このギャップがいいですよね。現実でこのギャップを持っている人はいないはずです。
(追記)
『映画けいおん!』について
[0回]
BDを観て、思うところがいくつかあったので書いておきます。
まず分かったのは、やはり『けいおん』の評価が高いのはたまたまではないし、洗脳でもないということ。少なくとも感動させる演出では圧倒的に優れてると、映画をみて感じました。アンチの人もここは認めざるをえないはずです。その上での好き嫌いはあると思いますが・・・。
『映画けいおん!』の泣き所は細かく分けると3つ、全て終盤に集まっています。最初は「最後のライブを教室で強行する」シーン。ここでは基本的に既存の曲を楽しそうに演奏しているだけ。しかしなぜか感動するのです。『けいおん』は光をつかった見せ方が非常に優れていると感じました。このライブシーンでも窓から差し込む光で、少し色が飛んだ感じになっているのですが、これが「青春のはかない思い出」みたいなものを感じさせるのではないでしょうか。この光をつかった演出は他の肝心なところでも必ずといっていほど使われていて、言葉で説明をしない感動を与えてくれます。
1つとんで3つ目も演奏シーンです。このシーンはテレビ版でもあった展開で、梓のために作った曲を本人の前で披露する、というものです。ここでも基本的には1つ目のライブシーンと同じく、光を使い方、それから回想なども入っていて当然感動します。
テレビ版と比較してひとつ気が付いたのは、映画では「梓が涙を流す」というシーンがなくなっていることです。「涙」という感動の記号を使わなくても、十分に感動させられるということなのでしょう。確かにその通りでした。感動の記号を使わずに「イイ感じ」を演出できる、このあたりが『けいおん』のすごさだと感じます。
戻って2つ目の感動シーン。梓への演奏を前に互いの心境を語りあう4人、というシーン。感動の度合いは別として、このシーンが『けいおん』の最もすごいところであり、他のアニメではこの感じを見たことがありません。
簡単に言ってしまえばただの会話。例によって明らかに感動を誘うようなセリフや演出はありません。しかし、普通の会話シーンとは何かが違います。そしてあまりにも現実味があります。何気ない会話こそが卒業を前にした彼女たちにとって貴重なものなのだと分かる感じで、そんな会話が続けられるほど不思議と感動がこみ上げてくるのです。
具体的に何が違うのかよくわからないのですが、おそらく会話の「間」に秘密がありそうです。それとも声優さんの演技力なのでしょうか?だとしたら声優さんには感服するばかりです。
テレビ版では二期20話には言わずと知れた感動シーンがあります。ここでもこれと同じような手法の会話が使われていました。さらにこのシーンでは「感動を誘うセリフと演出」もプラスされているのでもうどうしようもないくらい泣けます。
映画全体の感想も書いておきます。
作りとしてはテレビ版のよさをそのまま2時間に凝縮した感じで、最後に向かうにつれテレビ版最終回(ストーリーの)に繋がるようになっていきます。前半部分のロンドン旅行は、いつもの日常感を見せつつ、テレビの総集編みたいにならず、劇場版のスペシャル感を演出するためのものだったのだと思います。
少し気になったのは、ロンドンパートと帰国後の学校パートが分離していまっている感があることです。ロンドンが全体の3分の2ほどで、帰国後が3分の1ほどなのですが、ロンドンで一度クライマックスを迎えてしまった感があるので、帰国したときの失速は否めません。感動するのは帰国後なので、ロンドンパートから自然につなげることができれば尚よしだったと思います。
劇場版の一番最初のシーン(唯の部屋、まず写真が画面いっぱいに映った後、目覚ましが鳴る。それを布団の中から手だけがのびて止める)はテレビ版一期の一話の最初のシーンと同じだということに気が付きました。最初の写真がテレビ版では中学生時代の写真なのに対して、映画では軽音部メンバーの写真なのがミソです。とはいえちょっとした遊びみたいなものなのでしょう。テレビでは入学式の朝だったので、映画では卒業式の朝であればグッとくるものがあったのでしょうが、実際にはそうではありません。
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