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直球表題ロボットアニメ





もしこれからこのアニメを見てみようかな、と思っている人はこの記事を読まずにとりあえず見てみることをお勧めする。できればその前に「gdgdフェアリーズ」を見ておくことをもっとお勧めする。



というのもこのアニメ、「ネタバレ注意です」と行ってしまうこと自体が重大なネタバレになってしまうように思う。最終話が色々な意味で想定外すぎて、私はかなりグッタリきてしまった。星評価とは関係なくトラウマ的なインパクトが強い作品であったことは間違いない。

まず押さえておきたいのは、このアニメが『gdgdフェアリーズ』の完全なる後釜であること。そして、アニメとラジオ番組の中間のような奇妙なジャンルもしっかり引き継いでいるということ。監督が同じなので「二番煎じ」とは言わないのかもしれないが、チープなCG、登場人物が3人、アドリブのコーナー・・・等、作りはほぼ同じであるといっていい。普通のアニメなら明らかな批判の的だが、バラエティ番組的な要素も強いこのアニメなら、それほど問題のあることでもないのかもしれない。

唯一決定的に違うと感じたのはこのアニメには「人類が滅んだ地球、残されたロボットたちは終わりのない戦争を続けていた。戦争とは無縁の3体のロボットたちは、人間が持っていたという「笑い」という概念が戦争を終わらせるカギになるのではないかと考え、研究を続けている。」というハッキリとした設定があるという点。この設定のおかげで、全体には良くも悪くも作用しているように感じた。アドリブのコーナーで「人間のことはあまり知らない」という設定にのっとり、声優さんたちが互いに追い込み合ってる感じとかは面白かった。ただ、それ以外の部分は決して面白かったとは言えない出来であった。というのも、そもそもアニメとバラエティ的な「笑い」というは相性が非常に悪いのである。それが証拠に、他のアニメ内でも「テレビでバラエティ番組がやっている」という場面があるが、そういったシーンは決まって、「俗世間の汚らしさ」みたいなものを感じさせるためのものになっている。おそらく、「すべる」とか、「かぶせる」とか、生っぽい笑いをセリフ上で再現するのは非常に難しいことなのだろう。このアニメではそれをやろうとしてしまっているがために、セリフがある部分は全体的にさむい仕上がりになってしまっている。

まあ、いろいろ言ってきたが、最終話のまさかの展開によって、そんなことはどうでもよくなってしまう。まず私が騙されたいたのが、「gdgdフェアリーズの後釜なのだから、同じようなテンションで終わるのだろう」と思い込まされていたこと。最終話はいつもと違うストーリーめいたシリアスな展開になるのだが、それを見ても私は「はいはい、このパンターンね」と冷静だった。なぜなら、「gdgd」でも最終話はシリアス展開が突如始まり、最後は想像だったオチ、というものだった(1話丸々無駄にしている感込みでgdgdらしくて良かったのだが)からだ。さらに、その回のテーマが「オチ」だったのである。「さあ、どこでオチを入れてくれるんだい」とシリアス展開を見続けると、なんだかんだで笑いのプログラムを手に入れた三体はそれを世界中に拡散させ、自身達もついに笑いの概念を獲得する。と同時に、エラーを起こし、笑いながら次々と起動停止していく。終わり。なのである。

こちらがエラーを起こしそうになった。「意外なストーリー」とか、そういうことではなく、テレビ番組としてのジャンルを逆手に取った本当の「まさか」だったように感じる。しかも、そこに至るまでの展開も哲学的(拡大解釈かもしれないが)で、たとえば、全てのロボットが停止したところなどは「さっきまで戦争をして、会話をしていたロボットたちがただのモノに戻った。いや、もともとモノだったか。じゃあ、人がいない地球で戦争や会話を永遠に続けていたのも、風が吹いたりするのと同じただの現象だったのだろうか・・・。みたいに、私の心はすっかり旅に出てしまった。

gdgdフェアリーズからの思い込みも計算に入れてこの裏切りを作っているのだとしたら、全く「してやられた」としか言いようがない。と同時にこんな経験が出来たことを感謝したい気持でもある。私の「最終回すごいランキング」では現在1位の作品となった。








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ゆゆ式



 

もはや、改まって語る必要があるのか。というくらいのよくあるパターンのアニメ。情報処理部という謎の部活を作ってしまったり、キャラの感じだったり、「どこかで見たな」という要素の集合体のような印象である。しいて新鮮味がある個所といえば、基本的な構成が「しっかり者の主人公と、彼女になつくバカ2人」というところぐらいだろうか。ただ、ありきたりであっても大きな不可がある訳でもないので、「少なくともジャンルとしては好き」という理由だけでも、なんとなく見れてしまうというのもこの手のアニメの特徴であり、毎期毎期、マイナーチェンジのように同じようなものが作られている理由でもある。(と思う)


「ボンヤリ見て癒されれば、それでよし」そんなアニメなのだが、個人的には一つだけ大きく気になる(良くも悪くも)部分があった。
先ほど言った、「しっかり者の主人公」についてなのだが、このひとが私の”好きな女性キャラの条件”に見事に当てはまってしまっているのわけである。その条件というのは「比較的まじめ、男言葉、シャイ、(高身長、黒髪、女子にモテる設定)」というもので、実際当てはまっていると感じたのが「澪(けいおん)、沙英(ひだまりスケッチ)、結衣(ゆるゆり)」くらいだろうか。ほのぼの系アニメだとこんな感じのキャラが出てくると無条件に見てしまっているような気がする。
「じゃあ良かったじゃないか」そう思うかもしれないが、今回は少々事情が違う。このアニメを見はじめて真っ先に思ったことは、「この主人公、ゆるゆりの結衣に似すぎている」ということ。しゃべり方や役回りだけならまだしも、声の人も同じで、目をつぶっているとまるで違いが分からない。しかもよく見ると、「ゆい」という名前まで同じ。
「これじゃあ、同一人物やないかい!」
ゆるゆりに関してはすっかりファンになってしまっている身からすると、この似せかたは「ニセモノが現れた」と思ってしまわなくもない。その辺りにはもう少し配慮してほしいと思う。
ただ、慣れてしまえばそこまで気になることでもなく、なんだかんだで「唯」の存在のおかげでこのアニメを見れていたという部分も大きい。

このアニメはほのぼの系の中では、意外と笑いも取りたいのかな?という部分が多々ある。それの中途半端さに若干イラッとすることもあったのだが・・・。
去年で言うと「じょしらく」とか「ゆるゆり」のような、面白さも両立しているものと比べてしまうと、とどのつまり「センスが悪い」と言わざるを得ない。何というか、テレビの影響でお笑いのノリとかを日常会話に取り入れて、「からの~?」とか言っている女子高生の、はたから見るとイラッとする感じをそのまま再現していまっている感じだ。
「脈略がない言葉を連発してそれに唯がツッコんでいく」という場面がよくあるのだが、こういうときの言葉選びにこそセンスが重要だということを理解してほしいものである。
また、こういうシーンも含めて主要三人のなかに常にただよっているがの、テンションが上がった人に対して「〇〇がこわれた~」とはやしたてて仲間内で盛り上がるというような雰囲気だ(実際にそう言っているわけではない)。個人的にはこういうノリがあまり好きではない。「どこが壊れてるんだよ」と無性に反発したくなるのは私だけなのだろうか。
結論を言うと、「なんとなくかわいいキャラクターがいて、何となく会話している」それだけでも十分に成立するジャンルなのだから、無理して笑いをとりにいかなくてもいいのではないだろうか、ということだ。


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世界観の話② 「時間」を与えるアイテム

前の記事では「世界観を構築する点」の存在について書いたが、今回はその具体例について最近少し気になることがあるので書き残しておこうと思う。

ここ数年、アニメ中で登場すると少しだけ「んっ?」となるアイテムがある。
それは、携帯電話 だ。
そこには携帯電話が持ってしまった「時間」の概念が関わっている。

良い世界観を作っていくうえで重要なのは、前にもふれたとおり「存在しない概念」を作っていくことにある。例えば、ドラえもんでは、のび太君は放送が何年目になろうと小学5年生のままだ。ご存知の通り、これは別にドラえもんの道具で永遠の小学5年生になっているわけではないし、1年間の物語を何年にもわたって放送しているというわけでもない。つまり『ドラえもん』という世界では、のび太は「成長しない」のではなくて、「成長という概念がない」ということになる。
もし「のび太は永遠の小学5年生」などという設定があったとしたら、ドラえもんの世界観は全く別物になってしまう。

ドラえもんの例にもあるように、アニメの世界では「時間」に関する概念がないことが多い。それは、ドラえもんのように、作品の都合上「時間経過」が無いような場合もあるが、時間が存在しないことを利用して素晴らしい世界観を作っている例もある。例えば私の好きな『ソラノヲト』は「現実の時間軸とのつながり」という概念は存在させつつ、具体的な西暦などについては暗黙のままにし、その空白からくるゾワゾワ感が絶妙な世界観を作っている。

現代劇であっても具体的な西暦については触れられないことが多い。というか、わざわざ触れる必要がない。具体的に西暦20〇〇年と言い切ってしまうと、点の理論から「実際に起きたニュース」などの存在まで同時に認めることになってしまう。そこまではっきりと現実を意識させられると入り込みが難しくなったり、少しの差異がやたら気になったりと、何かと面倒なことになる。『シュタインズゲート』のようにそこのリアリティーを追及していくという手もあるが、特にそういうつもりではない場合、細かな時間は「あやふや」にしておいた方が無難である。

「あやふや」にしておきたい時間。携帯電話の存在がそれを邪魔しつつある。
ここ数年でスマートフォンが圧倒的に普及したことがその原因だ。スマートフォン普及以前は連絡方法に関して、「携帯電話=現代」という「あやふや」な関係性が成立していた。(ただ、もしかしたら世代によって感じ方は違うのかもしれない)しかし、ここ5年程度の間にスマートフォンは爆発的なスピードで普及し、従来の携帯電話は「ガラケー」と名前を変えた。これによって、スマートフォン普及後の現代劇では「スマートフォン=2008年~現在」、「ガラケー=少なくとも2008年以降ではない」というように、かなり細かい時間設定が点の理論より生まれてしまうのだ。問題なのは、今まで通りにガラケーを登場させるだけでも「2008年以降ではない」という意味が出てしまうということだ。これによって、前述したようにイヤな現実味が出がちになっているのである。また、ストーリー上、まったく登場させないのも難しい、というのも厄介なところだ。

スマートフォンの普及があまりにも急激だったがためにこのような事態に陥っている。現時点ではガラケーを登場させるアニメが多い(原作の連載時期の影響も大きいとは思う)が、今後スマートフォン歴が長くなればなるほど、ガラケーが持つ意味が大きくなっていくことだろう。どこかで切り替えていくことが必要になるが、なかなかそのタイミングは難しそうだ。

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世界観を構築する「点」について

いきなり余談になってしまうが、この記事では文末は「だ、である」体に統一してみようと思う。
今までは基本「です、ます」に統一していたわけだが、話が長くなって、内容も理屈っぽくなっていくほど、この「です、ます」が邪魔になっていることに気付き、もどかしい思いをしていたわけだ。
だた難しいのは、自分自身のことを話すような部分に関しては「です、ます」のほうが相変わらず丁度よく、実際、ここまでの文を書いている段階で、「です、ます」に戻したくてうずうずしている。
まぁ、このブログのメインは近況報告ではないので、そこは割り切って「だ、である」で頑張ってみようと思う。


ここからが本題。
「世界観」といえば、世界観がイイ、だとか、世界観を構築する、だとか、フィクション作品を語るうえでは何かと登場する言葉だ。私も、度々この言葉を使ってきたのだが、その意味がハッキリしないまま何となく響きの良さで使ってしまっている、いわゆる「困ったときの世界観」状態になってしまっているのではないか、と少々不安になってきたので、ここで私の中での「世界観」ついて整理してみようと思う。

「世界観」とは「物語中の概念を意図的に制限することで作られる仮想世界(に受ける印象)」だと思っている。要するに「そんな考え方自体、この世界には存在しませんよ。」という存在を作っていくことで生まれる物語全体の印象、ということだ。逆の考え方をすれば「ゼロから存在する概念だけを作っていく」という言い方もできるのだが、灰羽連盟やソラノヲトなどの世界観が素晴らしかったアニメを思い出してみると、なんとなく「制限」という言い方のほうがしっくりくる。

世界観について考えるとき、私は平面の図を思い浮かべている。アニメ内で起きた、事象A、事象B、事象Cがあった場合(事象といっても、街並みとか、しゃべり方とか、その幅は広い)、「点A,B,Cを頂点とする三角形の面積」にあたる部分がその時点での世界観である、というイメージを持っている。
「Aがあって、Bもあるということは、少なくともAとBの間のすべてが存在する可能性があると考える」ということだ。理屈っぽく言っているが、誰もが無意識にそう感じているはずである。

実際にはA,B,C,どころではなく、作品中には無数の点が存在する。しかし、たいていその点は、いくつかでグループを作って近いところにかたまっている。「ギャル語、金髪、学校をサボっている・・・」これらの点は非常に近いところにあることが分かるだろう。このような点だけがいくつ集まっても世界観が広がるということはない。そのかわりに、狭い範囲の世界感をより鮮明にするという役割を担っている。図で言えば三角形から、点が多くなって滑らかな円に近づいていくイメージだ。

世界観を構築していくうえでは、近い点をたくさん打ってその解像度を上げていくことも重要だが、時には全くかけ離れたところに点を打って、世界観を大きく広げるという作業も必要になる。そして、その作業こそが「世界観がイイ」につながるものでもあり、世界観を崩壊させてしまうようなリスクも併せ持っているのである。

私がこのように考えるようになったキッカケでもある例を挙げようと思う。急に気持ち悪い話になるので覚悟してほしい。
『けいおん』や『ゆるゆり』、『ひだまりスケッチ』など、女の子しか登場しない系アニメ、そこで比較的よく登場するセリフ、そのセリフが出た瞬間に世界観がひっくり返る思いがして、私は悶絶してしまうのである。

いつもの4人で行動している最中、とある一人が「ごめん、今日は先に帰るね。」と足早に去っていく。

その後、残されたうちの誰かがぼそっとつぶやく「もしかして、彼氏かな・・・」

この瞬間、世界観が倍に膨れ上がる。お分かりいただけただろうか。実際彼氏がいるかどうか、ということが問題なのではない。フィクションなのだから。重要なのは男性キャラがほぼ登場してこなかったアニメにおいて、「彼氏」という概念を生み出した、ということだ。



図にするとこんな感じになる。それまで「彼氏」という存在に一切触れず、それ以外の「学校」や「友情」などの点を打ち続けることで構築されてきた「彼氏という概念が存在しない世界」。そこに打ち込まれた「彼氏だったりして」という一つの点。これによって「彼氏という概念が存在する世界」が一瞬にして誕生する。
ストーリー上は「彼氏じゃなかった」ということになるのだが、一度誕生した世界は消えることがない。「今はいないけど、5年後はいるかもしれない」「10年後はお母さんかもしれない」と、その世界では存在しうる未来も含めて「可能性」が圧倒的に広がるわけだ。

この例について「彼氏だったりして」という点を打ったことが、是か非かという結論を出すのは難しいことだ。そして何より、こんなことの是非にこだわっているようでは現実に生きる人間として虚しい。
しかし、点の効果が絶大であるということは図を見るだけでも一目で分かる。物語を作るうえでは無視できない存在だ。そのあたりについて製作側がどの程度意識しているのか、気になるところだ。











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妄想代理人




2004年からWOWOWにて放送されていたアニメ。私が見たのはつい先日です。
ストーリーが重要なアニメなのでまず振り返っておくと・・・
疲れた現代社会を癒す人気マスコットキャラクター「マロミ」をデザインした鷺月子は、ある夜、通り魔少年バットに襲われた。突如世間に現れた少年バットは次々と人々を襲いはじめ、市井の人々を恐怖へと陥れていく。しかし、幾人も被害者が出、多くの目撃者がいるにも関わらず、少年バットは一向に捕まりそうになかった。猪狩慶一と馬庭光弘は捜査を進める中、被害者の持つ不思議な共通項に辿り着く。(wikipedia)
全体に暗い雰囲気が漂っていて、現代劇であることや、少し古めの作画なども相まって、正直、けっこう不気味です。ただ怖いアニメ好きの私としては、むしろ早く次が見たいと思わせるための原動力になっていました。さらに、ただ単に怖いというだけではなく、妙に現実味のある世界観に落ちていくような入り込み感が非常に強く、見る側の「解釈力」を求めるけっこうレベルが高い風なアニメではあるのですが、そのあたりは度外視にしても雰囲気だけで十分に素晴らしいアニメであると言えます。
(ここからネタバレを含むのでこれから見てみようと思う人は読まない方がいいかも。)
ウィキペディアにもあるように、「謎の通り魔、少年バットの正体」がこの話のキモとなっています。しかし、なんだかんだハッキリとした答えが出ることはありません。意味ありげな伏線はこれでもかと張られているのですが、推理アニメではないのでそれらをつなげても「なるほどっ!」とはなりません。よって、視聴者は妄想を膨らませて一見突飛すぎるストーリーを解釈していかなければなりません。
私の場合はとある事情もあって、かなり序盤から一つの仮説を立て、その後の展開を全てそれにこじつけながら見る、ということができました。ちなみに仮説(というか、見かた)というのは、「アニメ内で起きる怪奇としか思えないような現象も、人の妄想が作り出す化学的にありえるものとする。」というものです。(誰が見てもだいたいこういう感じにはなると思いますが)
『妄想代理人』の題字の下に、「Paranoia Agent」と英語訳か英題が書いてあるのですが、この「パラノイア(paranoia)」は「妄想」の意のほかに「偏執病」という精神病の一種としての意味もあります。私はたまたま、このパラノイア患者についての本を読んだことがあり、そのイメージがあったおかげで、このアニメのストーリーにもある程度の整理をつけることができました。
パラノイア患者の特徴の一つに、異常な被害妄想というものがあります。よくある例としては「町中で自分を監視しているに違いない」や「自分は脳にチップが埋め込まれて、月の裏の基地から操作されているに違いない」などがあげられています。また、薬物依存者にもパラノイアの症状がよくみられ、コカイン依存者の多くは「皮膚の中に虫が這っている」という感覚、幻覚、妄想に取りつかれ、皮膚が裂けるまでかきむしってしまう事例が多く挙げられています。コカインの摂取によって皮膚が敏感になることや、血管が浮き上がることが原因といわれていて、それらの「現実の症状」によって虫が這うという共通の妄想が引き起こされ、皮膚から出血するという「現実の症状」に戻ってくるわけです。このように、現実に起こる事象と妄想が一連の流れをなしうるということは、妄想代理人においても、少年バットによる被害が必ずしも現実の「少年バット」によるものとは限らず、また、他傷であるとも限らないということになります。また、何の関連性もないような人が次々と少年バットの被害にあっているということについても、「少年バットの存在を意識してしまった」という現実によって「少年バットの被害にあう」という共通の妄想が引き起こされているとも考えられるわけです。

例えば、もし、すべての人が水を飲むようにコカインを摂取している世界があったとしたら、皮膚の中に這う虫は「妄想」と呼ぶことはできるのでしょうか。コカインの副作用は「虫が這う妄想を見る」から「虫が這う」になっていたのではないでしょうか。全ての人が同じものを認知していればそれは「存在する」といってもいいのかもしれません。少年バットは最終的に巨大化、そして黒いかたまりとなって町中を破壊していきます。あのシーンはふかんで描かれているようでふかんではないのです。国民にメディアによって植え付けらた少年バットの恐怖が同時に発現し、そこにいる誰もが黒いかたまりを「実際に」見ていた。つまり、私たちが見たあの映像は「本当のふかん」ではなく、「主観の集合としてのふかん」ということなのです。もしかしたらあのシーンの真実は、目を血走らせ集団妄想に取りつかれた人々が、人を殴り、ガラスを割って暴れまわっているだけなのかもしれません。
人の妄想が作り出す可能性の恐怖、どこまでが真実なのかという確信など持つことはできないということの不思議さを体感できるかが、このアニメのポイントだと思います。
ただ、この見方で大抵のつじつまは合っていたのですが、最後の最後だけ微妙に矛盾してしまいました。すでに町中が黒い塊に飲み込まれている中で、最初の被害者であり、最初の妄想者でもあった鷺月子が誰もいないところで、自分自身の妄想を認める。すると、町中を覆うかたまりが消える。という決着なのですが、私の説だと、少なくとも鷺月子が妄想を認めたところを間接的にでも、全国民が知る必要があったのですが、そのような様子はありませんでした。そこはどう解釈したらいいのか、よくわかりません。
このアニメのオープニングは映像も込みでものすごく効果的なものでした。たぶん、あのオープニングをまじまじと見ていると催眠効果があると思います。オープニングで頭が程よくボンヤリとしてきたところで、本編を見ると、現実と妄想の狭間が分からない不思議な感覚が強くなるのだと思います。
さらにエンディングも、まるで「全てはマロミの夢だった」というかのような意味深なもので、何とも言えない後味を残してくれます。
オープニング、本編、エンディング、の一連の流れで見せていこうという演出が作品全体への埋没感を高めているようでした。

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