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ガッチャマンクラウズ






「タツノコプロ50周年でガッチャマン新作」この情報だけで既に期待せずにはいられない作品。「ガッチャマン」を冠しておきながら手抜き作品を作れるわけがないからだ。さらにオープニングが超カッコいい。これは絶対に面白い、そう確信して視聴を開始した。
そして全話視聴した今の感想。
オリジナル作品なのに、なぜあそこまで場当たり的な脚本をよしとできたのか、まったく疑問だ。
「現代社会にヒーローは必要か?」というしっかりとしたテーマを掲げながら、ふたを開ければその場限りの演出ばかりが詰め込まれて、本筋はペラペラ。原作があってそこから編集している、とかなら分かるのだが、初めからアニメ放送に収めるつもりで作ったストーリーでこれはどうかと思う。
ただ、ストーリーやテーマは無視してもう少し細かな見方をすれば、先ほど書いたようにオープニングや挿入歌のカッコよさ(特に主人公が変身したときの演出は妙にカッコいい)のおかげで、テンポよく見られる作品ではある。それから、場当たり的なストーリーもその場限りの期待感はあるので、決して退屈することは無い。だたしその後の展開を期待すると裏切られることになる。


まず本筋の部分について、ここではガッチャマンとは別の方法で良い世界を実現しようとする人物が登場し、それがストーリのキモになる。その人物には「今国民は一部のリーダーに頼りすぎている。世界を変えるには国民それぞれの人助けの意識を啓発する必要がある」というはっきりとした思想があり、自身で開発したアプリでその思想を現実へと近づけつつある。そこでガッチャマンの存在が明らかになるのだが、言うまでもなく彼にとっては「ヒーロー」なんてものは、変わりつつある国民の意識をまた低下させてしまう存在で、ガッチャマンには活動をやめるように要求する。というあたりがのが最も重要であると感じた部分。何が面白いのかというと視聴者側からすればあまりにも有名なヒーローである「ガッチャマン」の新作で、その存在を否定してしまっているということ。ガッチャマン放送から40年、アニメ文化の進化、視聴者の理解度の進化によってその存在自体もより掘り下げて考え直す時が来た。と考えればガッチャマンの新作に見合うだけのテーマであるといえるのかもしれない。


ここまでちゃんとしたテーマを掲げて、結局それをおざなりに終わらせたということが問題。一応なんとなく完結はしているのだが、全然芯を食っていない。とにかく、その場だけのおもしろい展開を継ぎ足し継ぎ足しで本筋が見えなくなっている。
例えば、もともとガッチャマンが戦っていた「メス」、あれは結局なんだったのか。まさか「一見敵でも、こちらから歩み寄れば分かりあえる」という説明をするためだけに登場させているのではないだろうか?

それから・・・
・オーディーが変身したら地球が滅びるのはずじゃないの?
・JJはとってつけたような神々しいキャラのわりに、最後はなんとなく無能な感じに処理さ
 れている。
・ベルクカッツェとオーディーのオカマキャラがかぶってるのは関係ないの?
・批々木丈のキャラがエピソードによって変わりすぎ。同一人物とは思えない。

等々、ノイズが多すぎて本筋が全然見えてこない。めだかボックスのようなそういう勢いを楽しむタイプの作品ならこれでもいいのかもしれないが、とにかく私は上に書いたテーマについてもっと掘り下げてほしかった。

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彗星のガルガンティア



まず、とても良かったのが背景の美しさ。舞台は陸地がない未来の地球で、人間は巨大な船(ガルガンティア)の上で生活している、という設定。一目見て感動的なのは、海のエメラルドグリーン、空のスカイブルー、ガルガンティアの白、オレンジ、黄色、と背景の色が限定されていて、これがとても美しいということ。最も広い面積を占める青系の色に暖色のガルガンティアが鮮やかに浮かび上がる感じで、特にサビのオレンジまでそのバランスの一部になっているところなどは、よく考えられてるなと感心した。
それから作画の到達点も非常に高く、3話の海賊との戦闘シーンは、水しぶきに越しに見る照明の感じなどはFateZeroの戦闘シーンに勝るとも劣らない完成度だった(と思う)。ただ、迫力のある戦闘シーンという意味では後にも先にも3話が最後だったようで、その後の尻すぼみ感は否めない。
ストーリー面では主人公レドの圧倒的な価値観の違いが面白かった。「ジブンガシタイコト?イミガワカラナイ・・」本気で言ってるのか?とは思ったが、生まれたときから戦うことだけをすり込まれたらそうなるのかな、と妙に納得してしまったりもする。それほど我々からすればありえないような生き方をしてきたということなのだろう。それにしてもあんなにもロボットのようになれるのか?とは思うが。4話のべベルが吹いた笛の音色で、人間的感情が湧きあがり突然涙を流すシーンとかは、まるでタチコマがオイルの涙を流したシーンをみたときのような気分になった。このあたりが序盤の見所で、価値観の違いがあるということは「その差を埋めることができるのか」というのがその後のキモになってくるわけである。
それから、全体の雰囲気からするとやや不釣り合いなエロス要素は賛否が分かれそうなところだ。謝肉祭の話の「レド目の前でお色気ダンスを踊る」というシーンは「なんだこれ?」とは思ったが・・・。

そのあたりの理由で前半から中盤にかけては、おおむね期待できる内容だった。しかし、残念なことに終盤あたりからストーリー上の明らかな欠陥によって、作品全体の品位が台無しになる。私がストーリーにケチをつけるときは大抵が「とってつけたような恋愛要素」とか「偽善的な主人公」とかだが、このアニメに関してはそういうことではなく、ストーリーの根幹に関わる明らかな落ち度だ。
このアニメの大きなテーマは「姿や生まれ、考え方が違っても人間は分かりあえることができるのか」といもの。その象徴的な存在として、レドやヒディアーズが登場してくるわけである。そして、レドはガルガンティアの人々との交流で少しずつ人間らしい考え方を獲得し、ヒディアーズ(クジライカ)に対しても、辛い真実を知ると同時にその考え方は変わりつつあった。というようにテーマに対してはある程度希望を持てるような展開になっていわけである。
そんな時に登場したのが「クーゲル船団」。神への信仰心が強く、生贄をささげてしまうような、現在では絶対にありえないような価値観を持っている。と同時に、人間を生贄にするということは歴史上間違いなく実在したことで、そういった人たちもまた我々と同じ人間であるということも理解しておかなくてはならない。
そんなクーゲル船団に対する扱いが明らかに間違っているのである。
(このあたりからは見たことを前提に書きます。)
生贄をささげる様子を見てしまったピニオンの一言「やっぱこいつら無理だわ!」。いかにも「今までの俺、間違ってた。本当に大切なことがなんなのか分かったぜ。」みたいないい方で、ストーリ的にも、このセリフをきっかけに空気がガラリと変わる感じになっていた。要するに、「クーゲル船団」という絶対的な悪の存在が浮かび上がることで、フィナーレに向けてストーリーが加速していくつくりになっているわけである。しかし、これは明らかにおかしい。神を信じ続けてきただけの彼らが悪なのだとしたら、戦うことしか知らなかったレドも悪、人と分かりあえずに戦ってきたヒディアーズも悪、ということにならなければ筋が通らない。便宜上の理由だけで、あっさり切り捨てていい存在ではないことくらい、少し考えればわかるはずだ。理屈っぽく言っているが、自然に見ていても、それまでの流れからどう考えてもクーゲル船団が悪には感じられないのである。そのため「やっぱこいつらダメだわ!」と言われた時には正直「はぁ?」と思った。良いことみたいに言ってることに無性に腹が立つ。なぜ、前半の作画面ではあそこまでのクオリティをみせていたのに、こんなにも分かりやすい破綻をよしとしたのか、まったく疑問だ。
また、そこからの展開が「クーゲル船団=悪」を前提として進んでいくのでまるでしっくりこないものになってしまった。例えば序盤でガンガンティアを襲った女海賊が最後は一緒に戦うことになるのだが、この「はじめは敵だったやつが、真の悪の前では仲間になる」展開も、そもそもが揺らいでしまって、なんだかよく分からない感じになっている。
その他終盤の展開は、詰め込み過ぎた感が強く「この人は今、何を考えているんだっけ?」と混乱をしてしまった。

破綻しまくったストーリーの中ではチェインバーだけが最後までブレずにかっこいい存在だったのかもしれない。最後の最後で、「もう支援は必要ない」と言ってレドを強制的に脱出させ、単機で最後の決着をつけたシーンは、熱くなるものがあったし、作画的にも最初の頃の輝きを取り戻していたと思う。「AIが感情を持っているのかもしれない」という展開はもはや鉄板である。それまでが酷かっただけに何かホッとするような気さえしたのは私だけだろうか。

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直球表題ロボットアニメ





もしこれからこのアニメを見てみようかな、と思っている人はこの記事を読まずにとりあえず見てみることをお勧めする。できればその前に「gdgdフェアリーズ」を見ておくことをもっとお勧めする。



というのもこのアニメ、「ネタバレ注意です」と行ってしまうこと自体が重大なネタバレになってしまうように思う。最終話が色々な意味で想定外すぎて、私はかなりグッタリきてしまった。星評価とは関係なくトラウマ的なインパクトが強い作品であったことは間違いない。

まず押さえておきたいのは、このアニメが『gdgdフェアリーズ』の完全なる後釜であること。そして、アニメとラジオ番組の中間のような奇妙なジャンルもしっかり引き継いでいるということ。監督が同じなので「二番煎じ」とは言わないのかもしれないが、チープなCG、登場人物が3人、アドリブのコーナー・・・等、作りはほぼ同じであるといっていい。普通のアニメなら明らかな批判の的だが、バラエティ番組的な要素も強いこのアニメなら、それほど問題のあることでもないのかもしれない。

唯一決定的に違うと感じたのはこのアニメには「人類が滅んだ地球、残されたロボットたちは終わりのない戦争を続けていた。戦争とは無縁の3体のロボットたちは、人間が持っていたという「笑い」という概念が戦争を終わらせるカギになるのではないかと考え、研究を続けている。」というハッキリとした設定があるという点。この設定のおかげで、全体には良くも悪くも作用しているように感じた。アドリブのコーナーで「人間のことはあまり知らない」という設定にのっとり、声優さんたちが互いに追い込み合ってる感じとかは面白かった。ただ、それ以外の部分は決して面白かったとは言えない出来であった。というのも、そもそもアニメとバラエティ的な「笑い」というは相性が非常に悪いのである。それが証拠に、他のアニメ内でも「テレビでバラエティ番組がやっている」という場面があるが、そういったシーンは決まって、「俗世間の汚らしさ」みたいなものを感じさせるためのものになっている。おそらく、「すべる」とか、「かぶせる」とか、生っぽい笑いをセリフ上で再現するのは非常に難しいことなのだろう。このアニメではそれをやろうとしてしまっているがために、セリフがある部分は全体的にさむい仕上がりになってしまっている。

まあ、いろいろ言ってきたが、最終話のまさかの展開によって、そんなことはどうでもよくなってしまう。まず私が騙されたいたのが、「gdgdフェアリーズの後釜なのだから、同じようなテンションで終わるのだろう」と思い込まされていたこと。最終話はいつもと違うストーリーめいたシリアスな展開になるのだが、それを見ても私は「はいはい、このパンターンね」と冷静だった。なぜなら、「gdgd」でも最終話はシリアス展開が突如始まり、最後は想像だったオチ、というものだった(1話丸々無駄にしている感込みでgdgdらしくて良かったのだが)からだ。さらに、その回のテーマが「オチ」だったのである。「さあ、どこでオチを入れてくれるんだい」とシリアス展開を見続けると、なんだかんだで笑いのプログラムを手に入れた三体はそれを世界中に拡散させ、自身達もついに笑いの概念を獲得する。と同時に、エラーを起こし、笑いながら次々と起動停止していく。終わり。なのである。

こちらがエラーを起こしそうになった。「意外なストーリー」とか、そういうことではなく、テレビ番組としてのジャンルを逆手に取った本当の「まさか」だったように感じる。しかも、そこに至るまでの展開も哲学的(拡大解釈かもしれないが)で、たとえば、全てのロボットが停止したところなどは「さっきまで戦争をして、会話をしていたロボットたちがただのモノに戻った。いや、もともとモノだったか。じゃあ、人がいない地球で戦争や会話を永遠に続けていたのも、風が吹いたりするのと同じただの現象だったのだろうか・・・。みたいに、私の心はすっかり旅に出てしまった。

gdgdフェアリーズからの思い込みも計算に入れてこの裏切りを作っているのだとしたら、全く「してやられた」としか言いようがない。と同時にこんな経験が出来たことを感謝したい気持でもある。私の「最終回すごいランキング」では現在1位の作品となった。








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ゆゆ式



 

もはや、改まって語る必要があるのか。というくらいのよくあるパターンのアニメ。情報処理部という謎の部活を作ってしまったり、キャラの感じだったり、「どこかで見たな」という要素の集合体のような印象である。しいて新鮮味がある個所といえば、基本的な構成が「しっかり者の主人公と、彼女になつくバカ2人」というところぐらいだろうか。ただ、ありきたりであっても大きな不可がある訳でもないので、「少なくともジャンルとしては好き」という理由だけでも、なんとなく見れてしまうというのもこの手のアニメの特徴であり、毎期毎期、マイナーチェンジのように同じようなものが作られている理由でもある。(と思う)


「ボンヤリ見て癒されれば、それでよし」そんなアニメなのだが、個人的には一つだけ大きく気になる(良くも悪くも)部分があった。
先ほど言った、「しっかり者の主人公」についてなのだが、このひとが私の”好きな女性キャラの条件”に見事に当てはまってしまっているのわけである。その条件というのは「比較的まじめ、男言葉、シャイ、(高身長、黒髪、女子にモテる設定)」というもので、実際当てはまっていると感じたのが「澪(けいおん)、沙英(ひだまりスケッチ)、結衣(ゆるゆり)」くらいだろうか。ほのぼの系アニメだとこんな感じのキャラが出てくると無条件に見てしまっているような気がする。
「じゃあ良かったじゃないか」そう思うかもしれないが、今回は少々事情が違う。このアニメを見はじめて真っ先に思ったことは、「この主人公、ゆるゆりの結衣に似すぎている」ということ。しゃべり方や役回りだけならまだしも、声の人も同じで、目をつぶっているとまるで違いが分からない。しかもよく見ると、「ゆい」という名前まで同じ。
「これじゃあ、同一人物やないかい!」
ゆるゆりに関してはすっかりファンになってしまっている身からすると、この似せかたは「ニセモノが現れた」と思ってしまわなくもない。その辺りにはもう少し配慮してほしいと思う。
ただ、慣れてしまえばそこまで気になることでもなく、なんだかんだで「唯」の存在のおかげでこのアニメを見れていたという部分も大きい。

このアニメはほのぼの系の中では、意外と笑いも取りたいのかな?という部分が多々ある。それの中途半端さに若干イラッとすることもあったのだが・・・。
去年で言うと「じょしらく」とか「ゆるゆり」のような、面白さも両立しているものと比べてしまうと、とどのつまり「センスが悪い」と言わざるを得ない。何というか、テレビの影響でお笑いのノリとかを日常会話に取り入れて、「からの~?」とか言っている女子高生の、はたから見るとイラッとする感じをそのまま再現していまっている感じだ。
「脈略がない言葉を連発してそれに唯がツッコんでいく」という場面がよくあるのだが、こういうときの言葉選びにこそセンスが重要だということを理解してほしいものである。
また、こういうシーンも含めて主要三人のなかに常にただよっているがの、テンションが上がった人に対して「〇〇がこわれた~」とはやしたてて仲間内で盛り上がるというような雰囲気だ(実際にそう言っているわけではない)。個人的にはこういうノリがあまり好きではない。「どこが壊れてるんだよ」と無性に反発したくなるのは私だけなのだろうか。
結論を言うと、「なんとなくかわいいキャラクターがいて、何となく会話している」それだけでも十分に成立するジャンルなのだから、無理して笑いをとりにいかなくてもいいのではないだろうか、ということだ。


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ラブライブ



 
『THE IDOLM@STER』以降のアイドルものアニメ、といってしまうと腹を立てる人もいるかもしれません。二番煎じは当たらないというのが世の常ですが、残念ながらこのアニメも例外ではないように感じました。

この記事を書くにあたって知ったことなのですがこのアニメには特殊な経歴があったようです。


美少女総合エンタテインメントマガジン『電撃G's magazine』、音楽会社ランティス、アニメーション制作会社サンライズの三者による合同プロジェクト。9人の美少女キャラクターをアイドルとして売り出していきながら、従来のアニメやゲームでは実現され難い、ユーザーの声を積極的に取り入れる要素を内包している。アイドルとなるヒロインたちの普段の様子やストーリーを『G's』誌上にて展開しつつ、サンライズ制作のプロモーションビデオDVD付きの音楽CDを販売する (wikipedia)

たしかCMでも「次のセンターは誰だ」みたいなことを言っていたような・・・。
要するに架空のアイドルに作品の枠を越えた流動性のある活動をさせているということだと思います。
これはなんだか良さそう・・・な気がします。
現実のアイドルはどこまでも追いかけることができる代わりに急に熱愛発覚したり、結婚したりしてしまう「落とし穴」がまっている恐怖があります。例えば安田美沙子がある時から勝手に恋愛オープンキャラになり、さらにクリスマスの過ごし方について聞かれたとき「今まで彼氏がいないクリスマスはなかったんです。」発言。 いままで? 路線変更するのはまだ許すとしても、過去までさかのぼってそれはない。それまでのファン心理をどれだけ無視する気なのでしょうか。私はこれを「安田美沙子の裏切り」とよんでいます。
大きく脱線してしまいました。つまり何が言いたかったかというと二次元アイドルの完全無欠性と三次元アイドルの作品単位では終わらない無限性、ラブライブというプロジェクトは絶妙な妥協点なのではないだろうか、ということ。
という意味では今回のアニメ化もここまでの経緯を分かっている人にとっては待ちに待ったものだったのかもしれません。しかし、そのあたりの事情は一切ないものとして考えます。私は知らないでアニメだけ見ていたので。

ただ単にμ`sのメンバーが動いたり、しゃべったりしているところを見たい。ということであれば一部を除いてはごく問題なく”普通に”楽しめるアニメだっと思います。このあたりはさすがに「ユーザーの声を積極的に取り入れる」ということの強みなのかもしれません。おそらく誰かしらの推しメンみたいな存在はできることでしょう。(私はそうでもありませんでしたが)

しかし、ストーリーに目を向けてみると何とも中途半端な仕上がりであったと言わざるを得ません。比較になってしまうかもしれませんが、THE IDOLM@STERであそこまでアイドルという存在について掘り下げていたことを知ってしまっているがために、中途半端な人間ドラマや葛藤みたいなものはむしろ入り込みの妨げになっているように感じます。
例えばメンバーを集めをする場面では、「本当はアイドルをやりたいのだけれどそれぞれの事情で素直になれない後のメンバー」という流れがよくある(というかそれが全話中の大半)のですが、それに対して解決がいつも決まって
必死に努力する主人公及び現メンバーの姿をみて「やっぱりやる!」ばかりなのです。まあ現実なんてそんなものだとは思いますが「やっぱりやる!」ではアニメ的には原動力が不鮮明すぎます。
それから全体的にみても最終回付近の流れはグズグズしてしまっていて、とりわけおかしかったのは「ラブライブにでるのはやめます」展開。いろいろとそうせざるを得ない「大人の事情」があるのでしょうが、全く無意味な展開であったと思います。
そして「ラブライブ」という大きな最終回への流れを失った代わりに提示されるのが「穂乃果の留学」。正直このとき穂乃果という人選で私は「上等な捨て駒だな」と思ってしまったのですが、皆さんはどうだったのでしょうか。主要3人の中では少し浮いている感じがあったのです。そしてなんだかんだで留学問題に関しても「やっぱりやる!」的なあやふやな解決。別にダメなわけではないのですが・・・。
まあ、キャラクターありきのこのアニメ。ストーリーのことをグダグダとケチをつけるのは大人げないのかもしれませんが・・・。

ただ救いなのは、このアニメは挿入歌も含めて曲が良いので「やっぱりやる!」からバーンと曲に入ると強制的に感動する感じにはなります。
悪口ばかりになってしまいましたが、ストーリーの粗さは無視することができれば
(可愛いメンバー)→(やっぱりやる!)→(曲バーン)の流れで安定の完成度を出しているとも言えなくもありません。

あともう一つ。
ものすごく棒読みの人がいたのですが・・・。ゲスト声優かな?と思ったのですがどうやらそうでもないようで、魚の骨のように気になり続ける存在でした。
ごめんなさい。

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